3.大切な妹だから
自分でもびっくりするくらいの深い眠りから目覚めた。時計を見ると午前十時を過ぎている。私、くつろぎ過ぎだ。
リビングに顔を出す。誰もいない。別の部屋から物音がしたので開けてみたら、デスクの前に座る駿君の後ろ姿があった。
三台あるパソコンのモニターには、意味不明な数字やらグラフやらが映し出されている。
駿君が私の方を向いた。
「おはよう」
「おはようっていう時間でもねえだろ。あと人の部屋入るときは声をかけるかノックしろ。今は仕事中だったから良かったものの、あやしい動画とか観ている最中だったらどうしてくれる」
端整な顔を真っ直ぐこちらに向けて、微妙に返事のしづらい正論を淡々と言い立てられる。俯いてもごもごと謝っていると、彼は少し笑って立ち上がった。
「腹減ったろ。飯食いに行こう」
マンションの近くにあるクラシックな雰囲気のカフェ。ここは人気店らしく、中途半端な時間だというのに若い女性やカップルで賑わっていた。
駿君は常連なのか、店に入った途端に店員達が親しげな笑顔を見せる。彼は定位置らしい窓際の隅の席に座るや、店員に言った。
「あっちのメニューひとつ持ってきて。俺はいつもの」
「あれー、如月さん、珍しいじゃないすか女の子連れて来るなんて。彼女かな」
やたらと親しげな態度の店員が、にやにやと笑っている。
「違う、ガキの頃の近所の子。妹みたいなもん」
「妹。いいっすね妹。如月さんそういう趣味だったんだ」
「あのな、妹って聞いて何考えてんのか知らねえけど、それこそこいつのミルク作りから何から何まで俺がやっていたんだよ。そういう意味で妹」
駿君にぴしゃりとはねつけられ、店員はすごすごとメニューを置いてある場所に向かった。
妹、か。
確かに駿君からしたらそうなのだろう。
私の母親は家事や育児を殆どしなかった。だから私を放り出して恋人の所へ出かけてしまう母親の代わりに、駿君と彼のお母さんが私を育ててくれた。
だがそのことで寂しいと思ったことは一度もない。狭くて汚い自分の家で、母親に怯えながら過ごすより、広くてきれいな家の中で、大好きな人達と一緒にいる方がずっと楽しかったから。
駿君のおうちと幸せは、私の中では同義語だった。
でも、私は。
「注文まだ?」
ふと気がつくと、駿君の食事は既にテーブルの上に載っていた。私は慌ててメニューに目を移す。
でも見たところで私には別世界過ぎて何が何やらわけが分からない。おしゃれで美味しそうな写真が溢れてはいるものの、どれも味が想像できない。しかもどういうわけか値段が出ていないからオーダーするにも気が引ける。
「うぅ、ごめん。私の好きそうなもの頼んでくれるかな」
散々迷った挙句に頭がショートし、一番面倒くさい結論を口にしてしまった。
駿君は私の子供の頃の性格を知っているせいか、そう言われても特に嫌な顔をせず、店員を呼んで淡々とオーダーをした。
私の方に向き直る。
「さっき部屋見てみたんだけど、やっぱり手ごろな広さでセキュリティのしっかりしているところはどこも入居していて」
「ありがとう、色々見てくれて。セキュリティなんて考えたこともなかった。私が今まで住んでいた所なんか、それこそセキュリティ対策なんかゼロだったけど、何も問題なかったもん。まあ、中はゴミしかなかったから、泥棒だって入る気しなかっただろうけどね」
セキュリティかあ、と思いながら、さっそくテーブルに届いたパンケーキに手をつける。いかにも私が好きそうな、イチゴと蜂蜜がたっぷりの宝石みたいなパンケーキだ。
駿君は私の答えに一瞬悲しそうな表情を見せたが、次の瞬間急に表情を変え、強い口調で言った。
「食事の前は『いただきます』!」
食事をしながら、私達は他愛ない話を色々した。
私と話しているうちに昔の自分を思い出したのか、優しいけれどちょっと口うるさい「お兄ちゃん」の顔が見え隠れする。
それでも私は何となく気づいていた。
会話の中に、「お互いの十年にあったこと」は出てこない。
そして私が何故突然来たのか、その話題は避けている。
「駿君、本当にちゃんとしたお仕事しているんだね。さっき部屋のパソコン見てびっくりした」
「ちゃんとした仕事、って、あのなあ」
「で、何のお仕事しているの。大家さん?」
「大家さんっつーか、んー、何か色々」
駿君は私に分かりやすく仕事内容を語ることを早々に放棄してしまった。でも私としては、駿君がまっとうな手段で社会生活を送っている、という事が分かればそれでいい。
だが、だとすれば、これは一体何なのだろう。
この、彼の、得体の知れない
パンケーキのほかにも、私の目の前に次々と食事が並べられる。
ほうれん草とベーコンのオムレツ、人参とレーズン、ナッツのサラダ、具沢山のスープ、そして大きなティーポットに入ったハーブティー、などなど。
どれもこれも、新鮮で素材の味の濃いものばかり。「陽のあたる場所」で作られた、貴重な食材をふんだんに使っているのだろう。
駿君は昔から小食だ。今もチキンの入ったサラダとパンしか食べていない。だから彼の目の前で大量の食事を平らげるのは、少し恥ずかしいのだが、そんなことは言っていられない。
もっと、もっと食べたい。
実は昨夜からずっと、飢餓感に苛まれていたのだ。
売血で体に現れる症状はいくつかある。主なものは貧血と冷え、脱水、そして強烈な飢餓感だ。
空腹感、ではない。飢餓感。命の危機を感じる程の飢餓感に苛まれる。食べても食べても満たされず、常に飢えと渇きに苦しんでいる。
考えてみれば当たり前だ。だって自らの命の源を、「餌」として奪われ続けているのだから。
「今のうちに言っておくけど」
私が、とどめの巨大チョコレートケーキを半分食べ終わった時点で、駿君は口を開いた。
「こんなに食うのはこれで最後だからな」
「ん?」
「ん? じゃねえよ」
駿君は私の額をつんつんとつついた。
その時彼からふわりと昨日と同じ匂いがして、私の胸はきゅうっとちいさく震えた。
「その食欲、売血のせいだろ。俺のところに転がり込んだ以上、もう二度と売血はさせない」
私がケーキを完食した時点で、彼はテーブルで会計を済ませた。
先程の親しげな店員が、駿君にクレジットカードを返しながら囁く。
「よろしく」
だが駿君はそれに答えず、席を立って私との話を続けた。
「俺の事をどう思っているか知らねえけど、俺にとっては、はなちゃんは大切な妹だ。妹がこれ以上弱っていくのは見ていられない。だから二度と血を売るな。いいな」
駿君はそう言いながらスマートフォンを覗き、店内を見渡した後、すっと一点を睨み据えた。
大切な妹。
駿君にとって、私は大切な存在と思ってもらえているんだ。
ありがたいことだと思う。だって私、こんなになってしまったのに。
でも。言っても仕方のないことだけれど。
あなたが私を「妹」と言うたびに、私は十五年ものの初恋が破れた痛みに、苦しんでいるんだよ。
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