4.なにも汚くない

 食事の後、少し待っていろと言われ、私は店の前でしばらく待たされた。


 物凄く居心地が悪い。首筋の噛み傷は長く伸ばした髪の毛で隠しているとはいえ、身なりと顔色が悪く、貧弱な私の事を見れば、分かる人は分かる。

 私のが。

 ランチ時になったせいか、店の前には行列ができている。そこに並んでいる何人かが、私の事をちらちらと見ている。こういう時、若い女子の視線は露骨だ。


 あなた達には一生縁のない世界だろう、私のいる世界は。

 私だって好きでこんなことになったわけじゃない。あなた達と同じ世界で生きたかった。

 清潔な家に住んで、きちんと学校に通って、たまに友達とこういうカフェに来て、うつむかずに生きてみたかった。


「君、これ売っているかい」


 冷えをごまかすために足踏みをしながら駿君が戻るのを待っていた時、一人の男が私に近づいて囁いた。

 「これ」と言いながら自分の首筋を軽く叩く。売血交渉のサインだ。


「いえ、売っていないです」


 私の言葉に、男は歪んだ笑みを浮かべた。


「『これ』で、よく分かったね。こういう店に入るような女の子なら、普通分かんないと思うけどなぁ。何を売っていないの」


 ああ、そういうことか。


 私が俯いて黙っていると、男は私の顔を覗き込んだ。がさがさの唇が開くと、中から黄ばんだ乱杭歯が覗く。

 その時、少し離れた所から何かが破裂するような低い音が聞こえた。男は一瞬、音のする方へ目を向けたが、すぐ私に向き直る。


「君、かわいいのに勿体ないね。その分じゃ、随分年季入っているんじゃないの。ねえ、君、いくら」


 この男、多分、血を買うつもりで近づいたんじゃない。私が見るからに「そういう感じ」だったから、面白がって声をかけてきたんだ。

 こんなことはよくある。反論しても仕方がない。私は黙って俯き、男が飽きるのを待つ。

 

「ねぇ、なんで売らないの。ねえ、俺買ってみたいな。どう」

「おい」


 いつの間にか男のすぐ後ろに駿君が立っていた。

 声をかけられて男が振り返ると、駿君は男の額にいきなり裏拳を叩きつけた。


「いてっ」


 利き手ではない左手で、しかも軽く小突いただけだが、中指に嵌められた大ぶりの指輪が眉間を直撃したらしく、男は額を押さえて顔をしかめた。


「なんだよお前、いってえなぁ」

「なんだ、『人間』じゃねえか」


 いきなり小突かれて怒りの形相の男の事を見て、駿君は少しほっとしたように呟いた。そして男の胸倉を掴み、引き寄せる。


「てめえ、俺の妹に向かって紛らわしいちょっかい出すんじゃねえよ。もし俺が『狼』だったら、てめえをこの場でぶち殺している所だ」


 男から手を離す。駿君の雰囲気に気圧されたのか、男は意味不明な言葉を呟きながら小走りに去っていった。


「ごめん待たせた。寒かったろ。行こう」


 駿君は男のことなどまるでなかったかのようにそう言って私の肩を軽く叩いた。そして店の方を見る。

 先程の店員が店先に出ていた。駿君は彼に向かって小さくOKサインを出し、店員はそれに小さく頷いて応えた。


「お待たせいたしました、お先にお待ちのマエダ様二名様、カウンター席でしたらご用意できますが……」


 店員は並んでいるお客を案内しながら店の中に消えた。

 私の肩を叩いた駿君の右手からは、さっきまではなかったはずの、微かな火薬の臭いがした。




「ねえ駿君」


 すたすたと歩く駿君に、私は忠告した。


「私の事、あんまり人前で妹って言わない方がいいよ」

「なんで」

「だって、こんな汚い女が妹なんて言ったら、印象悪いだろうし、色々差しさわりがあると思う」

「はなちゃんの何が汚い」


 駿君は立ち止まって私の事を睨んだ。


「その何年着ているんだか分かんねえ服のことか。それとも噛み傷のことか。ほかに何が汚い。どこが汚い」


 首を少し傾げ、そう早口でまくしたてる。「汚い」って、そういう事を言っているんじゃない、という私の反論を許さないかのように。


「はなちゃんは何も汚くないし、何も悪くない。悪いのはどうせあのお母さんだろ。あと、はなちゃんに群がる吸血種ども。はなちゃんがそんな思いをしなきゃなんねえなんて、悪いけどあのお母さん、今度一発殴ってやりたい位だ」


 駿君が本気で怒っているのが伝わり、嬉しいような、悲しいような、複雑な気分になる。


「あの母親、駿君が殴る必要なんてないよ」


 昨日の出来事が甦る。恐怖と、怒りが甦る。


「私、昨日、母親を殴って家を飛び出したの。あいつが勝手に吸血種と、へ変、な、契約をしたから、耐えられなくて。でも私、母親を、殴って……」




「俺、今からはなちゃんの家見て来る。車なら二時間もあれば戻って来られるから、とりあえずそれまでの間、風呂でも入って待っていろ」


 マンションに戻るや、彼はいきなりそう言った。そして私が何かを言う隙もなくさっさとタオル類を取り出し、浴槽にお湯を張り始める。


「ちょっ、え、見て来るって、なんで」

「お母さん、なんか吸血種と嫌な契約したんだろ。なら、その契約を反故にされた吸血種がお母さんと騒ぎを起こしていないか、一応確認しておいた方がいい。俺としてはあのお母さんがどうなろうと知ったこっちゃねえけど、おおごとになっていたら面倒だ。それに」


 そこで駿君は口をつぐんで玄関に向かった。


「今、着ているもんはそこに放り込んで、このボタンを押せ。バスルームにあるもんは何使ってもいいから。キッチンも勝手に使って。俺が戻るまで好きにしていていいけど」


 出かける支度をしながら淡々とした口調で話していた彼は、そこで一転、私を鋭い目で睨み、脅すような低い声で言った。


「あの仕事部屋には絶対に入るな。いいか。絶対、だ」




 駿君に迷惑をかけてしまって申し訳ない、自分が逃げたせいで母親がどうにかなったらどうしよう、という気持ちを抱えながら、言われた通りバスルームに向かった。


 駿君、優しいな。言わなかった。私が、ろくにお風呂に入れない環境にいたと気がついたんだろうに。


 生活感がまるでない、広くて清潔なバスルーム。私なんかが使っては申し訳ないような気分になる。

 適当にボタンを押したら、浴槽からいきなり強烈な水流と気泡が飛び出し、思わず溺れそうになった。なんなのこれ。とりあえずボタンの表示、アルファベットにしないでほしい、読めないから。


 一通り勝手に騒いでから、改めてゆったりと浴槽に身を沈める。自分の髪の毛から、さっき使ったシャンプーのいい匂いがする。そしてなぜか悲しくなる。


 鏡に映る自分の顔を見る。

 子供の頃から変わらない、淡いブラウンの髪と瞳。

 私のことを、駿君や彼のお母さんは、いつもかわいいと言ってくれた。そしてこの髪と瞳をよく褒めてくれた。

 彼のお母さんは、私の母親に内緒でフリルたっぷりの洋服を買ってくれ、私はそれを着て駿君とお母さんと一緒に色々な所へ出かけた。そして出先で私がお人形さんみたいだと褒められると、二人は嬉しそうに微笑みあっていた。


 吸血種に命の源を吸われ、寒気と飢えに苛まれながら路地裏で横になる時、ぼんやりと目の前に浮かぶ光景は、いつもあの時の幸せな記憶の数々だ。


 でも、もう、あの頃とは違うのだ。

 だから。




 加減が分からず、うっかり長風呂をしてしまった。バスルームを出ると、強烈な眩暈と吐き気に襲われる。自分が極度の貧血だという事を、すっかり忘れていた。

 目の前が真っ暗になりながらも、とりあえず人として最低限身につけなければならないものを身につける。


 ああ、多分今、酷い脱水状態のはずだ。水飲まなきゃ。でもキッチンまで歩けない。このリビング、なんでこんなに広いんだ。


 ぴかぴかの床をナメクジのように這ってソファになだれ込む。


 気持ち悪い。もう、私、本当にばかだなぁ。駿君に母親の様子を見に行ってもらっている最中に、何やっているんだ……。


 そこで、私の視界は暗転した。




 夢を見た。


 私が路地裏に立っている。吸血種と交渉している。

 交渉は決裂したらしい。それなのにそいつは私に噛みつこうとする。

 私は逃げる。でも脚が思うように動かない。そいつが牙を剥く。


 ――おい。


 そいつの背後から駿君が声をかける。

 そいつが振り向く。


 その眉間に、銃弾が撃ち込まれる。


 駿君が、銀色に光る拳銃を手にしている。

 鼻につく、火薬の臭い。


 私は駿君に向かってにっこり微笑み、言った。


 ああ、駿君、「狼」になったのね、と。

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