5.いてはいけない

 ふわふわの柔らかい感触と、爽やかで清潔感のある匂いに包まれて目が覚めた。

 気がつくと、寝室のベッドに寝ていた。毛布も掛けている。


 おかしいな、私、さっきタオル一枚の姿で、ソファで横になっていたのに。


「起きたか」


 え?


 ドアの向こうから声が掛かる。


 もしかして、駿君がここまで運んでくれたのだろうか。

 バスタオル姿の。

 ちょ、ちょっと待って。


 恐る恐る毛布の中の自分の姿を見てみる。


 よかった、バスタオル、うっかり外れていたらどうしようかと。

 ……なんか、タオルの巻き方がさっきと逆のような気もする。


 気のせいだ、きっと気のせいだ。気のせいだと言って下さい神様……。


 必死で祈りながらドアを開けると、駿君が心配そうな表情をして寝室に入って来た。


「さっきソファですげえ格好して寝ていたけど、どうした、具合でも悪くなったのか」

「凄い恰好って、一体、うぅ……あ、か、体は平気だよ。で、母親は、どう」

「お母さん、大丈夫そうだった。小柄で声のでかい男と一緒にいたけど、あれが今のお父さん?」

「一応そう呼ばされている。法律的には知らないけれど」


 吐き捨てるようにそう言う私を見ても、駿君は軽く頷いただけで何の反応も示さなかった。彼も、慣れているのだ。


「でも、よかった、何事もなくて。駿君、ありがとう。ごめんね、私のせいで大事な時間を使わせちゃって」

「それはいいから。それより今回みたいな事になった時、殴って逃げたりしちゃだめだ」


 ベッドの脇に座り、静かに話しかける。


「どんな契約されたのか知らねえし、今更言っても遅いけど、お母さんに黙って役所へ行って、契約の件をきちんと説明していれば、売血者対象の施設で保護してもらえたかもしれない」

「え、そうなの」


 母親に散々「役所は怖い所だ」と聞かされていたので、助けを求めようなどと考えたこともなかった。

 彼は頷いた。


「一人で生きたいなら、まずは知識と情報を身につけろ。それがないと、結局もとの生活に逆戻りだ。それどころか下手すれば」


 膝の上で組まれた手が、微かに震えていた。私から視線を逸らして言葉を繋ぐ。


「差し伸べられた手に気付かず、光のない泥沼の底で這いずり回るはめになる」




 倒れている間に、私の服の洗濯が終わっていた。

 洗濯機から取り出す。薄汚れて変色していた服は元の色を取り戻しており、ほかほかと温かく、上品な優しい匂いがする。

 ほつれや破れはそのままだが、清潔で柔らかな服は、さっきまでとは別物のようだ。

 洗いたての服に洗いたての体や髪。心地良さに思わず頬が緩んでしまう。


「ほらみろ、はなちゃんは全然汚くない。今度、一緒に新しい服を買いに行こう」


 ソファに座ってコーヒーを飲んでいた駿君は、私を見て微笑んだ。

 立ち上がり、そっと頭を撫でる。

 まるで九歳の子供を愛おしむように。


「きれいだよ、はなちゃん」


 彼の優しさが、私の心を深く切り裂く。




 その後、駿君は仕事部屋に引きこもってしまった。しばらくすると、ぼそぼそと電話で何か話す声や、がたがたと作業をする音が聞こえてくる。

 彼の具体的な仕事内容は理解できなかったが、生活ぶりから見て、おそらく「普通」の二十四歳よりも収入がある方なのだろう。

 それも「餌」の私なんかとは違って、まっとうな手段で得た。


 「まっとうな手段」、か。


 やはり、いくら外見を繕っても、所詮「餌」の私がいては、彼のためにならない。

 今のところそういう気配は見せていないが、多分彼女だっているだろう。たとえ今いなくてもいずれ出来るだろうし、そろそろ結婚だって考える年齢だ。

 そんな時、こんなのの世話を背負っているなんて分かったら、まとまる話もまとまらなくなってしまう。

 それに、そんな話を聞かされたら、私の心がもたない。


 よし。


 仕事部屋のドアをノックし、開ける。今朝と同じく、意味不明な情報を表示した三台のパソコンのモニターの前に、駿君が座っていた。


「なんだ、また腹でも減ったのか」


 淡々とした彼の言葉に首を横に振る。


「ううん。あのね、ありがとうとさよならを言おうと思って来たの」


 駿君は椅子に座ったまま片眉を上げた。私はあまりにも勝手な自分に嫌気がさしながら言葉を続ける。


「昨日から本当にありがとう。急に転がり込んだのに、凄く良くしてくれて、もう、どうお礼したらいいのか分からなくて、でも私」

「良くしたつもりも、礼を言われるようなことをしたつもりもねえし」


 机の上に頬杖をつき、明らかに不機嫌そうな顔で私を見ている。

 怒っている。当たり前だ。

 だが。


「やっぱり明日、役所に行って色々聞いてみる。施設とか、あるんでしょ。そこへ行けば、多分」

「役所って、どこにある何の役所で、どこの課に聞けばいいのか分かっているのか。保護の条件を知っているのか。契約破棄を理由に入居を断られたら次はどうしたらいいのか考えているのか」


 淡々と、立て続けに問いを重ねる。勿論、どの問いにも答えられない。

 だって今の言葉は嘘だもの。役所なんか怖くて行けない。だから、道は二つしかない。


「まさか、役所へ行かずに路上で血を売って暮らすつもりじゃねえよな」


 彼はそう言って脚を組み、私を睨み付けた。図星を衝かれ、思わず下を向く。


 私は売血しか稼ぐ手段を知らない。だから私に許された道は、家を持たず、路上で血を売る生活。

 それか。


「それか、最悪、家に戻って、母親の言う通りに『花嫁』になる……」


 私の発した「花嫁」の言葉に、駿君は椅子を蹴って立ち上がった。


 吸血種の「花嫁」。


 勿論、実際に結婚するわけじゃない。人間とサル同様、人間と吸血種では「種」が違うから。

 「花嫁」とは、財のある特定の吸血種の家に入り、一室に閉じ込められ、その家専属の「餌」として一生飼われる人間の事を指す。つまり、人間として生きる道を完全に絶たれる、ということだ。


 私の母親は、「お父さん」との生活のために、私を「花嫁」として売る契約をした。

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