6.光のない泥沼へ

「ふざけるな」


 駿君の低い呟き声の、語尾が微かに震えていた。


「自分の言った言葉の意味や、その言葉の行き着く先が分かっているのか。生きる手段も知識も持たずに吸血種に膝を屈した人間がどんな世界に沈むのか、あの世界は、あの世界は、お前にだけは見て欲しくない」


 駿君。あなたはまさか、見たの?

 その世界を。


「俺のそばじゃ居心地が悪いのか。なら他の居場所を探してやる。俺の持っている家は貸せねえけど、他にも手段なら」

「ありがとう。ありがとう駿君。凄く、凄く嬉しい」


 やっぱり私は、彼に助けを求めてはいけなかったのだ。

 たとえ自分が、どうなろうと。


「あのさ、駿君、二年前にいきなり私に年賀状くれたの、覚えているかな。漢字がいっぱい印刷されたの」


 私が急に年賀状の話をしたからなのか、駿君は不思議そうに目を細め、曖昧に頷いた。


「あ、ああ。仕事の関係者用に印刷したのが余ったから送った。あれがどうした」

「うん。多分そんな感じで送ってくれたんだろうなあと思った。でもね、住所以外は解読出来なかったけれど、あの時、凄く嬉しかったの。駿君が生きていて、年賀状を送れるくらいの生活をしているって分かって。私の事を覚えていてくれたんだって思って。私、あれを見て改めて、自分の気持ちが変わっていないんだなあって自覚したの。あのね。覚悟して聞いてね」


 もう、いいや。どうせ、もう一生会わないんだし。

 これを言えばさすがの駿君も突き放してくれるだろう。


「私、駿君のことがずっと好きだったの。お兄ちゃんとしてじゃなくて。それこそもう、四歳くらいの時から今まで、私は一度だって駿君の事をお兄ちゃんだと思ったことがないし、自分が妹だと思ったこともない」


 私の言葉に駿君は目を見開き、椅子に座り込んだ。


「小さい頃さ、『大きくなったら駿君のお嫁さんになる』って言っていたの、あれ本気の大真面目だったんだよ。それから私、ずっとずっと気持ちが変わらなくて。勿論無理なのは子供の頃から分かっていたよ。だけど想っているだけならいいじゃない、って。でも、やっぱり、『お兄ちゃん』じゃない人に……」


 分かっていたはずなのに。どうしてここに来てしまったのだろう。


 「お兄ちゃん」でない人に、助けてもらうわけにいかない。

 私の存在は、折角浮かび上がった駿君の迷惑にしかならないから。

 そして「お兄ちゃん」でもない人のもとに、身を寄せるわけにいかない。

 「好きな人」だからこそ、距離を開けた方が互いのためだから。


 私は顔を上げた。でも、彼と視線を合わせられない。

 強く見られたくて微笑もうと思ったが、出来なかった。


 勝手に転がり込んで散々好意を受けておきながら、迷惑な告白を押し付けた挙句に逃げ出すなんて、私、どれだけ最低な人間なんだ。

 椅子に座った駿君の顔を見て、心臓が黒い罪悪感で潰れそうになる。


 悲しげな光を沈めた、深い藍色の瞳。

 沈黙がしばらく続く。


「はなちゃんの気持ちは嬉しい」


 ずっと口を閉ざしていた駿君は、私を見てぽつりと言った。


「でも俺は、応えられない。俺は」

「え、や、そんなの分かっているって!」


 いきなり告白の「ごめんなさい」の返事が飛んできたので、思わず変な声になってしまった。


「こ、告白は本当、全然気にしないで。別れ際に言っちゃえって思って言っただけだから。え、と、あの、本当に、最後までごめんなさい。色々ありがとう。……さようなら」


 私は深く頭を下げて玄関に向かった。ドアに手を掛けて開く。

 その手首を、彼の手が掴んだ。


 あたたかい「人間」の手。この手首を、人間が触れることはもうないかもしれない。私は微笑み、その手をそっと外した。


「はなちゃん」

「あ、そうだ」


 悲しげな彼の声に耐えられず、思わずとんでもないことを口走ってしまった。


「最後にね、お願いがあるの」


 ばかだなあ、私。


「私のこと、『はなちゃん』じゃなくて」


 ばかだなあ……。


花菜はな』って、呼んでくれる、かな」


 私の言葉に、彼は一瞬、苦しげに目を細めた。

 少し下を向き、やがて私の方を真っ直ぐ見つめる。


 やだ。どうして。


 どうして、あなたの瞳の奥は、そんな風に悲しげに揺れているのだろう。


「……な」


 どうして、その深い藍色の瞳は、海の底の様に静かに潤んでいるのだろう。


「花菜」


 やだ。


 あなたはどうして、そんな切ない声で、私の名前を呼んでくれるのだろう。


 私はいたたまれなくなって、大きな声でお礼をした後、そのまま振り返らずにマンションを後にした。




 ――花菜。


 彼の声が、私の体に染み渡る。


 もう、大丈夫。

 今までの思い出と、この声の記憶を抱いて、私は光のない泥沼の底に脚を踏み入れる。

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