狼よ、白き薔薇を抱いて眠れ

玖珂李奈

1.暗闇の街で、私達は再会した

1.幼馴染との再会

 昔、世界は陽の光に包まれ、空は青く輝いていたのだという。

 私は、厚い雲に覆われた黒い空しか見たことがない。

 陽の光は、浴びるにふさわしい人のものだからだ。




 雨が降っている。

 レインコートがべったりと体に張り付く。雨は、ばたばたと音を立てて私の体を打ちすえる。

 彼の所へ行ってはいけない。それは分かっている。

 でも、私には引き返す場所がない。


 住所だけは知っていたが、実際に来たのは初めてだ。

 街のイルミネーションを浴びて、誇らしげにそびえ立つ高層マンション。建物の前には「人間専用」の看板が立っている。

 私は漢字がほとんど読めないが、これは分かる。この表示のある場所に、入ってはいけないからだ。

 たとえ私が、「吸血種」ではなく、正真正銘の「人間」だとしても。


 高い吹き抜けの、黒とベージュを基調としたエントランスに入ろうとする。

 その途端、上品な年配の男性に呼び止められた。このマンションの従業員らしい。

 まあ、普通呼び止めるだろう。一目で「売血者」と分かる、薄汚れたみすぼらしい身なりの若い女が入り込んで来たんだから。

 「人間専用」の看板を読まずに、吸血種相手に血を売りに来たと思われたのかもしれない。


「おそれ入ります。ご用件を伺ってもよろしいですか」


 慇懃いんぎんな態度で尋ねられたので、私は自分の名前と目当ての部屋を伝えた。彼は一瞬、眉をひそめたが、その部屋に直接確認の連絡をし、私をエレベーターに案内した。


 「32」のボタンを押すや、エレベーターは滑らかに上昇し始めた。

 

 柔らかなカーペットの敷かれた廊下を歩く。両脇には、大きく立派なドアが整然と並んでいる。

 目的の部屋は三十二階のつきあたりにあった。表札は出ていないが、この部屋のはずだ。

 ドアの前で、また躊躇いの心が頭をもたげる。

 でも、ここまで来てしまったのだ。私はひとつ大きく頷き、ドアの脇のボタンを押した。


 ドアが開く。




 彼は、廊下に立つ私をじっと見つめた。

 彼と最後に会ったのは、私が九歳、彼が十四歳の時だから、もう十年が経っている。私は子供の頃から顔があまり変わらないたちなので、きっと今の顔を見て、すぐに昔の面影を見つけることが出来ただろう。

 ただ、だからこそ昔と重ね合わせて欲しくない、と思う。


「はなちゃん?」


 昔に比べ、少し低くなった声。彼は深い海の底のような藍色の瞳で私を見る。私は思わず目を逸らした。

 私は、彼が最も蔑む人間に成り下がってしまったから。


「寒かっただろう。レインコートそこに掛けて中に入んな」


 どんな言葉を投げつけられるかと内心怯えていたのだが、彼はそれしか言わなかった。


 レインコートを脱いで部屋の中に入る。そして嫌でも気がついた。

 彼の視線が、私の首筋に向けられていることを。

 私は思わず自分の首筋を覆うように手で隠した。


 私の首筋は、今までに数えきれないほどの吸血種に牙を立てられ、血を吸われたせいで、でこぼこに変形している。


「ごめんね、こんな遅い時間に」


 一応言ってみる。けれども案の定、その言葉に彼からの答えはなかった。




 通された広いリビングには装飾が全くなかった。ダークブラウンのフローリングの床に、シンプルなテーブルとソファだけがぽつんと置かれている。


 ソファに座っていると、彼はココアを出してくれた。

 私の大好きな、濃い目でミルクと砂糖をたっぷり入れたココア。私の好みを覚えていてくれたんだ。

 マグカップを両手で包み込むように持ち、一口飲むと、かさかさに絞りつくされたはずの血液が一気に全身を駆け巡った。


「いつから血を売っている」


 私の斜め前に立って、彼は訊いた。昔を懐かしむ言葉も、非礼を責める言葉もない。

 その静かなたたずまいが、却って私の心に鋭く刺さる。


「ずっと、前から。だってしょうがないじゃない。私の血だけで家族が生活していたんだから」


 後ろめたい心が思わず語調を強くする。下を向きながら、言葉を続けた。


駿しゅん君から見たら、私みたいな売血で食べているような女なんか、吸血種と同じくらい憎らしいかもしれないけれど、こうして奴らに血を売らないと生きていけないんだもん。でも」


 でも。

 もう、限界なんだ。

 もう、これ以上こうやって生きていきたくない。

 だから。


「お願い。たすけて……」


 彼――幼馴染の如月きさらぎ 駿しゅん君が、そっと私の首筋に触れた。

 あたたかく、血の通った「人間」の手の感触。左手の中指に嵌められた大ぶりのシルバーの指輪のほかは、滑らかで、柔らかい。


 私は、私の首筋に初めて触れた人間の手のあたたかい感触に、思わず涙が零れた。

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