8.二十歳の誕生日

 夕食の後、私は冷蔵庫の中に隠していたケーキを高々と掲げた。


「え、本当に花菜が作ったのか、これ」

「そうだよー。凄いでしょー。チョコだってその辺で売っているのじゃないよ。ちゃんとクーナントカ使ったもん」

「クーベルチュール」

「……駿君ってさ、ちょいちょい女子力出してくるよね」


 そんな事を言って、綺麗にコーティングしたチョコレートの上にぶすぶすと蝋燭を挿す。何本にするか迷ったが、結局矢木さんが用意してくれた六本を適当に挿してみた。


「駿君、子供の頃チョコレート好きだったでしょ。だからこれにしてみたんだけど、チョコレート、今でも好き?」


 そう聞きながら、思わず「昼間」駿君に言われた「今でも俺の事が好きか」を思い出し、頬から火を噴いた。


「勿論。好きだよ」


 駿君も気づいたのか、少し笑いながら「昼間」私が言ったセリフをそのまま言う。


 ああ。

 この気持ちのまま、この状態のままで待たなければいけないのか。


「ろっ蝋燭さ、二十本か二十五本か四十五本か迷ったんだけど六本にしたよ」

「四十五本はねえだろう」


 気配りの細かい矢木さんから蝋燭とセットで貰ったマッチで火を点け、部屋の明かりを消す。

 街の明かりのせいで、真っ暗にはならない。仄暗い中、ケーキと私達が浮かび上がる。


「そういえばね、駿君、子供の頃よくほっぺに『ちうー』してくれたでしょ」


 チョコレートを見ると思い出す。あたたかな笑いがこみ上げてきた。


「でもさ、駿君よくおやつにチョコレート食べていたから、たまに私のほっぺにチョコレートがついたんだよね。そういう時って微妙に口が『ぺちょ』ってしているの」

「うわぁ、なんかごめん」

「いいの。それでも嬉しかったから」


 私は笑って蝋燭を吹き消した。二人を照らしていた火が消え、暗がりの中でぼんやりと駿君が見える。

 明かりをつけようと傍らにあったリモコンに手を伸ばした。


 その手を、駿君の手が押さえる。


「じゃあ、これ食う前に」


 仄暗い部屋の中で、微かに駿君の匂いがする。

 彼の唇が私の頬に触れる、微かな音が静かな部屋に響く。




 目覚めたはいいが、体が重く、なかなか起き上がることが出来ない。

 時間を見ると、もう十一時過ぎだった。自分の誕生日の午前中を、ほぼ睡眠で費やしてしまったことになる。


 リビングに向かうと、キッチンからぷしゅっという小さな音がして、コーヒーの香りが立ち昇った。スーツ姿の駿君は振り返り、いつもの淡々とした口調で、おはようの挨拶をした。


「おはよう……」


 私は私を好きだと言ってくれた、世界でただ一人好きな人に向かって、複雑な思いを抱えて挨拶した。




 昨夜は「明け方」までほとんど眠れなかった。

 心のどこかで僅かに期待はしていた。彼は私に好意は抱いている。ならばそのうちひょっとすると彼の心が動いて、私の気持ちに応えてくれるんじゃないかと。

 もっともそんな思いが心に浮かびかけると、いつも「妄想だ」と慌てて打ち消していたけれど。


 心は動いた。でも、応えてはくれなかった。

 それは、心が動かないことよりもずっと残酷な仕打ちだ。


 昨日、明かりを消した部屋の中で、彼は私の頬にキスをした。

 唇が触れた時、重ねられた手にぎゅっと力が入った。子供の頃のものとは全然違う、熱を帯びた唇の感触に、私の心の奥は苦しいほどに震えた。


 けれども彼はその後すぐに部屋の明かりをつけ、何事もなかったかのようにケーキから蝋燭をぶすぶすと抜いた。

 そしていつものように他愛ない話をしながらケーキを食べ、「今日は疲れているだろうからさっさと風呂入って寝ろ」と兄のような言葉を残して仕事部屋に入ってしまった。


「あ、今日はスーツなんだ。これから出かけるの?」


 でも自分で「待つ」と決めた以上、仕方がない。私は今までと同じ口調で聞いた。


「さっき出かけて帰って来たところ」

「もうひと仕事終わっていたんだね。爆睡していたからぜんっぜん気付かなかった」


 何気ない私の言葉に彼は心配そうに顔を覗き込んだ。


「疲れたのか。今日は一日寝ていた方がいいんじゃないか?」


 彼の優しさに心が引きちぎられそうになりながら、私は首を大きく横に振って、努めて明るく言った。


「違う違うごめん。昨夜寝られなくってさあ。だって楽しいことや嬉しいことがいっぱいあったんだもん」


 その言葉に安心したのか、彼は少し笑って自分のスマートフォンを見た。


「昨日、矢木から連絡があった」


 躊躇いがちに、私を見る。


「お母さんの入院先が分かった。花菜、どうする?」




 入院先は、私の前の家からさほど遠くない所にある、割と大きめの病院だった。

 駐車場に車を停めて降りると、どこかから興奮したような甲高い声が降ってきた。


「凄え! ママ見てあの車、格好いい!」


 通りすがりのちびっこがこちらを指差し、一緒に歩いていたお母さんに叫んでいた。なんだかちょっと恥ずかしい。


 ロビーや外来の待合室などは割ときれいだったのに、母親がいるという病棟に入ると、そこは古臭く澱んだ空気が漂っていた。

 ところどころ壁紙や塗装が剥げ、全体的に灰色にくすんでいる。妙に明るい照明が却って寒々しかった。


「ええと、行野さん、でよろしいですね、行き帰りの行に野原の野、で」


 母親が自分の名前を言わなかったらしく、看護師は私と話しながら何かを書き込んでいた。


「で、お二人は」

「行野さんの友人です」


 私が話す前に駿君が言った。友人、という言葉の不自然さに看護師は怪訝そうな顔をしたが、母親のいる部屋を教えてくれた。




 母親は六人部屋の一番隅にいた。仕切りのカーテンは開けっ放しだ。

 病室の中に入ろうとすると、駿君は入り口で立ち止まった。


「ごめん。俺は入らない。多分、顔見ると殴りたくなる」


 壁にもたれかかって腕を組む。俯き、私が向けた視線をシャットアウトする。私は何も言わず病室の中に入った。


 母親は目を覚ましていた。何も映していない目を開き、ぼんやりと上を向いている。私が近づくと、のろのろと視線をこちらに向けた。


 すっかり老け込んでいた。

 まだそんな歳ではないというのに、荒れた生活の結果が化粧をされていない肌にくっきりと刻まれている。

 あのビルから助け出した時、赤紫色になっていた顔色は、元に戻っている。だがこの感じでは、当分入院生活が続きそうだ。


「私。分かる?」


 母親はゆっくりと頷いた。


「私のこと、また売ったのね」


 私の問いかけに、母親は何も表情を変えなかった。ただ、ぼんやりとした視線で私を見ている。


「いいよ答えなくて。知っているから。でも私の大切な人が助けてくれた。あの吸血種の夫婦は消えたよ。だから、また私を売り込もうとしても無駄だからね」


 ちゃんと私の言うことを理解しているかどうか分からなかったが、母親は少し首を動かした。


「今までずっと、私に役所は怖い所だって吹き込んでいたでしょ? あなたが昔何をやって役所に怖い目に遭わされたのか知らないけれど、役所って本当は全然怖い所じゃないんだって。だから退院したら必ず保護してもらってね。そしてもう、娘を吸血種の餌にして暮らすような生活はやめて、きちんと、生きて……」


 私の言葉に、母親はまた少し顔を動かしただけだった。私はたまらなくなり、帰ることにした。


「もう、二度と会わない。さようなら」


 そのまま帰ろうとしたところを、母親に声を掛けられた。

 擦れて聞き取れない。私は振り返り、顔を近づけた。

 彼女からは、あの濃厚な香水の臭いではなく、微かな薬品のにおいがした。


「何?」

「はな……」


 かさかさになった唇を動かし、口元を僅かに微笑むような形にして、囁いた。


「おたんじょうび、おめでとう……」


 私は口元を必死に微笑みの形にして頷き、走って病室を後にした。




 病院を出、車の中に入った途端、心の糸が切れて涙が溢れて止まらなくなった。

 自分が今どういう気持ちなのか、母親に対してどう思っているのか、もつれすぎて訳が分からない。ただ、どんな奴であれ彼女は私の母親だ、ということだけが、くっきりと頭の中に立ち昇った。


 駿君は、病室の外で一部始終を聞いていた。言葉にならない呟きを繰り返しながら泣き続ける私に、説教も、慰めの言葉もかけなかった。


 ただ、いつまでも泣き止まない私に腕を伸ばし、そっと自分の方へ抱き寄せた。

 そしてその広い胸に私の顔を埋めさせ、背中をぽんぽんと叩いて呪文を唱えた。


 大丈夫、大丈夫。

 花菜は、いい子だよ。




 二十歳の誕生日。

 私は、母親に別れを告げた。

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