9.私の兄じゃない
ああ、これは絶対だめだな、というのは大体分かるものだ。話をしている途中から、明らかに相手が引いているのが分かる。
もう何か所目だろう。仕事のえり好みなんかしていないのに、今日の面接もダメだった気がする。私はとぼとぼと帰路についた。
通学歴なし、職歴は売血だけ、その上体が弱いときたら、なかなか雇ってくれるところなんてない。一番のネックはやはり職歴だ。「職歴なし」と言った方がいいんだろうか。でも下手に嘘をつくと、あとで色々面倒だろうし。
「ただいまぁ。今日もダメだったぁ」
ソファに寝転び大声で愚痴ると、仕事部屋から駿君が顔を出した。
「私、何から改善すれば仕事できるのかなあ。ねえ、なんで駿君はお勤めしないで今の仕事を始めようと思ったの」
「これか。脳みそと資産があればできるから」
「……何のヒントにもならない答えをどうもありがとう」
「如月さんちのお坊ちゃん」に聞いたのが間違いだった。
「資産はともかく、せめて人並みの知識さえあればなあ。今まで勉強する時間はいくらでもあったのに、ここに来てできるようになったのって、掃除と洗濯と簡単な漢字の読み書き位だもん」
「いきなり正社員だのフルタイム勤務だのを探そうとするから見つからないんじゃね。短時間のバイトで仕事の実績作ってみたら」
「でも、それじゃあ自立できないもん」
私の言葉に、駿君は複雑な表情を見せた。
今になって、私は自立を焦っている。だって私達は「兄妹」ではなくなってしまったから。
駿君には、いずれ私の想いに応えて欲しいと思っている。思ってはいるけれど、だからといっていつまでもこの家に居ついているわけにはいかない。今までずるずるとここにいられたのは、あくまでも私が『妹』だったからだ。
「花菜が初めてこの家に来た時とは状況が違う」
駿君が私のそばに立った。
「体のことがある。無理すんな。少しずつ慣らしていけばいいから」
私は寝そべっていたソファから立ち上がり、彼を見据え、その腕に触れる。
「状況が違うのは、そこじゃないもん」
しかし私の言葉に、彼は俯いて視線を逸らし、私の触れた手から逃げるように仕事部屋に戻ってしまった。
取り残された私は、ぺたりと床に座って縋るように仕事部屋を見つめる。
苦しい。
きりきりと痛む胸を押さえる。
今のあなたの仕打ちは、連日届く不採用通知なんかよりも、ずっと私を傷つける。
「行野さん、職探し難航しているんだってね。ごめんねうち人手足りているからさ。まあ永久就職の席なら一つ空いているよ」
真剣な表情で検査結果の紙を見ながら、渡貫さんはいつもの調子で言った。
「うん、傷の方はもうおしまいでいいかな。まだちょっと残っているけれど、多分これ以上は時間がかかるだけだから。まあ、ずっと通ってくれれば俺としては毎週行野さんに会えるし、あのドアの向こうにいるお兄さんから治療費取れるから、いいことずくめだけどね」
「ありがとうございます。ここまで本当に、もう、凄く嬉しいです」
自分の首筋を触って深く頭を下げる。
あんなにひどかった傷跡が、思ったよりも短い期間でびっくりするくらいきれいになった。まだ触ればでこぼこしているし、よく見れば分かるが、この程度ならなんとでもなる。腕の方はもうほとんど跡がない。
「さて。行野さん、ちょっとお兄さん呼んでくれる?」
「……お兄さん、じゃないです」
「ん?」
「駿君は、私のお兄さんじゃないです」
渡貫さんの目をまっすぐ見て言う。彼は背中を丸めて両手を膝の上で組み、私の顔を見つめた。
「そっ、か」
そして少し笑って、呟くように言った。
診察室に駿君だけが入り、私は待合室に出された。
しばらくするとぼそぼそと二人の話し声が聞こえてくる。今日は随分と長い。何を話しているのか気にはなるが、どうせ聞き耳を立てたところで分からない。話している言葉は英語だからだ。
誕生日の前、私が熱を出した時にうっかり大声で喧嘩をして以来、二人だけの会話の時は全て英語になった。そうすればどんなに大声で話しても、私が理解できないからだろう。
しばらくすると、椅子を倒すような大きな音がして、駿君の怒鳴り声が聞こえた。それに対する渡貫さんの声も少し大きくなる。二人はしばらく言い争いをしていた。
言い争い、というより、駿君が喚き散らしているのを渡貫さんが制している、というような。
駿君は普段あまり大声を出さない。怒った時とかは多少声が大きくなり早口になるけれども、大体その程度だ。ここまでの大声って、母親と一緒にマンションに来た吸血種を消した時くらいだと思う。
二人の事が心配だが、私は中に入れない。だって、これだけ大騒ぎをしているのに、やり取りは全部英語だから。
やがて、駿君の声は急速にトーンダウンし、渡貫さんの声は穏やかなものに変わっていった。
とぎれがちな駿君の言葉の合間合間に、しゃくりあげるような声が混じる。それに対する渡貫さんの低く穏やかな声。
それからしばらく、二人は診察室を出てこなかった。
「駿、お前相変わらずいかした車乗っているな。飽きたらくれよ。車検終わらせてから」
「いかしたって、先輩が言うとなんか古臭いな。やっぱり歳サバ読んでいるんだろ。本当はジジイなんだろ」
「ジジイって失礼な。俺、普段は『ハンサムな若先生』で通っているんだぞ」
「その『若い』はお父さんとの比較の問題じゃねえか」
「おい『ハンサムな』をスルーすんなよ」
医院の入り口で、論点がどんどんずれていく掛け合いをする二人は、すっかりいつもと同じ調子だ。
「行野さん、これからもちょっとでも調子が良くないときはいつでも呼んで。できればそんなこと、なければいいんだけれどね」
渡貫さんは軽く手を振った。
「じゃあね、さようなら」
お大事に、ではなく、さようなら、と言って彼は微笑んだ。
車の中でスマートフォンを覗くと留守電が入っていた。再生すると、申し訳なさそうな口調がわざとらしい、不採用の連絡だった。
折角買ってもらったかわいいスマートフォンなのに、こんな声を残しておきたくない、と急いで消去し、溜息をつく。
「ああ、もう。ねえ、英語が出来ると仕事あるのかなあ。駿君、英語って何歳くらいから習い始めたの」
「0歳」
「聞いてもしょうがない答えをどうもありがとう」
駐車場に着き、重い気持ちで車を降りる。
自立しなければ。今の私は、仕事も見つけられず、病院通いですらこうして送り迎えをしてもらっている。
この家を早く出て行きたい。気持ちは通じ合っているのに応えてもらえないこの状態で、いつまでも一緒にいるのはつらすぎる。口にも態度にも出さないけれど、それは多分、駿君も同じだ。
来客用駐車スペースのそばにあるエレベーターの前に立ち、下りて来るのを待つ。
その時、駿君はふっと腰を落として懐に手を入れた。
あたりを睨み付ける。
全身から刃物のような殺気が立ち昇る。
停められていた車から、人が何人も降りて来た。十人じゃきかない人数だ。
その中に、知っている顔があった。
心臓が強く跳ね、指先が冷たくなる。
そいつは私の方を見て会釈をした。
「どうも。お久しぶりでございます。ごきげんよう、如月さん」
以前私を攫った、木山と名乗っていた女がそう言うや、周りにいた男達が一斉にこちらに向かってきた。
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