16.陽の光を浴びて

 シトラスとハーブの混ざったような、爽やかで清潔感のある匂い。

 駿君の匂いとぬくもりに抱かれて目が覚めた。


 駿君は、私を包み込むような姿勢で眠っている。

 彫りの深い端整な顔立ち、艶のある漆黒の髪。けれどもあどけなくて愛らしくもある寝顔。私はこの寝顔が大好きだ。

 愛おしさのあまりつい指先で軽く頬に触れてみた時、彼は目を覚ました。


「おはよう」


 穏やかな笑みを浮かべ、あたたかな手で私の頬を撫でる。


「おはよう。ごめんね、私の手、冷たくて起きちゃった?」


 彼は私の問いには答えず、そのあたたかな手で、私の手を包み込んだ。

 そして吸血種の様に冷え切った私の体を抱き締める。

 彼のぬくもりが、じんわりと私の体に沁みわたる。


「昨夜ちゃんと寝られたか」


 駿君は起き上がって私の傍らに座った。


「うん。今日は調子がいいみたい。駿君が、ずっと一緒にいてくれたから」


 体が冷え、痺れや眩暈で眠れなかった私を、駿君は一晩中寄り添って包み込んでくれた。

 彼は少し笑い、私の頭をぽん、と一回軽く叩いて起き上がった。


「じゃあ、一杯飲んだら出掛けよう、第五地区」


 そう言って、いつものコーヒーと「はなちゃんのここあ」を作りに、キッチンへ向かった。




 車は滑るように走る。私はすっかり元通りになった助手席のシートを倒して横になった。


 第五地区に入った途端にすぱっと雲が晴れるのかと思っていたが、そう単純なものではなかった。旅行者用のゲートあたりにも、黒い雲が広がっている。

 黒い雲のない地区にはゲートが設けられており、出入りを厳密に管理されている。そうしなければ人が殺到してめちゃくちゃになってしまうだろうから仕方がない。それは分かっている。

 でも、ゲートでの手続きはうんざりするほど時間がかかった。ようやく終わってゲートを出る時、駿君は面白い位仏頂面になっていた。


「凄え無駄だらけだあの手続き。効率化すれば二、三分で出来るぞあんなの」

「あはは、駿君のお父さんが見たら雷を落とすか卒倒するかって感じだよねえ」

「いや、父ならゲートごと買収する」


 駿君は嬉しそうに微笑んでこちらを見た。


「花菜、今日は本当に調子良さそうだな」


 私は駿君の言葉に曖昧に頷いた。確かに今日はここ数日の中で一番体調がいい。

 駿君は、私が少しでも体調が良さそうだと、物凄く嬉しそうな表情をする。

 まるで、その事実に縋りつき、儚い希望をつなぎとめるかのように。




 車は長いトンネルに入った。


「ねえ駿君」


 少しだけ体を起こし、途端に襲い掛かる激しい眩暈にじっと堪える。


「一つだけ、お願いがあるの。叶えて欲しいの」

「どんな願いだ」

「お父さんとお母さんの仇討ちが終わったらね、『狼』を辞めて欲しいの」


 私の言葉に、駿君は驚いたような表情をして一瞬こちらを見た。


「私の仇はいいの。これは取引の結果だし。それに私としては仇どうこうより、駿君がこれ以上罪を重ねたり、危ない目に遭ったり、苦しんだりする方が嫌なの」


 痺れる手で、彼の腕に触れる。


「私が望んでいるのは、復讐よりも駿君の幸せなの。だからお願い。駿君、もう、やめて……」


 駿君は答えず、無言のまま前を向いて運転し続けていた。


 ずっと言いたかった。

 吸血種相手とはいえ、罪は罪だし、拳銃は彼の優しい心を確実に蝕んでいく。だからこれからは「狼」を封じ、穏やかで幸せな人生を歩んで欲しいのだ。


「……分かった。花菜がそう望むなら、叶える」


 長い沈黙の後、駿君は低い声で言った。


「だがな」


 私を見る彼の瞳に、トンネルの中の光が流れる。


「俺にとっては、花菜が幸せの全てだ。それ以外のものは何もないし、何もいらない」


 その時、車は長いトンネルを抜けた。

 途端に、視界いっぱいに眩い光と抜けるような青空が広がった。




 街は、すべてのものが陽の光を浴びて輝いていた。

 アスファルトの道路も、そっけないビルも、どれもきらきらと光っている。

 イルミネーションの輝きとは違う、天からの光。これが、「お天道様」の光なんだ。

 窓越しに空を見る。雲が白い。

 ああ、そうか、これが「晴れの雲」なんだ。


「きれいだね」


 駿君も陽の光の中で顔をほころばせた。深い海の底のような藍色の瞳は、陽の光の中で見ると、瑠璃のように澄んだ輝きを湛えている。


 信号が赤になった。駿君は私の顔を見てそっと指で触れた。瑠璃の色の澄んだ瞳が、私の目を見つめる。


「陽の光の中では、花菜はこんな色をしているんだ」


 私の体を起こし、唇を重ねる。


「きれいだ」


 やつれ果て、血色の失せた冷たい私の顔を見つめ、彼は熱のこもった甘やかな声で囁いた。

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