嘘は泥棒の始まりと言いますが、奴はとんでもないものを盗んでいきました。僕の心です。

 今日も書けない。ノートを閉じ、ペンを置く。

 フィクションを書きながらも、どこかで嘘には自覚的にならなければなぁと思い、執筆が進まなくなる。


 小説を書こうと思うと、嘘について考えることが多い。僕が読んだ傑作小説は、単なるフィクションではなかった。リアルとフィクションの間で、繊細に構築されていた。

 例えば、上橋菜穂子のファンタジー「精霊の守り人」を読んだときは、「これは異世界の中でありながら、僕らの世界の真実を描いている」と、矛盾した感想を持った。凄いことをやってるよなぁ、とつくづく思う。


 説明の中に一つ明らかな嘘が入ると、どこまで信用していいか分からず、全ての言説に大して疑わしくなる。ミカン箱に、腐ったミカンを入れるように、全体の印象が損なわれる。

 嘘を成り立たすには、かなりのコストが掛かる。



 こんな空想をすることもある。


 例えば、「嘘の中でしか描けない真実がある」と、大昔の作家が嘘をつく。その作家にとって、フィクションの執筆は、金を稼ぐ方法というだけであった。


 作家は、人が話す言葉は大体のことが「口からデマカセ」だと思っている。誰だって、正しい言葉だけで話そうとすると、途端に口をモゴモゴとして言葉を選ぶ必要が出る。

 なので、真実を語るのは止めた。執筆ペースを落とすと儲けに結び付かないからだ。


 その作家は小説で、「これこそ人生に、恋愛に、仕事における真実だ」とデタラメを書き、ありもしない真実、“虚偽の真実”を、もっともらしく語った。


 そして、その作品がたまたまヒットして皆の目に触れていく。

 読者は“虚偽の真実”を記憶のどこかに刻んでしまう。“虚偽の真実”は、読者の思考に影響を与える。そして読者も、読者以外に影響を与える。

 最後には、デタラメが蔓延してしまう。

 現在の世の中に理不尽や不条理がまかり通るのは、一編の嘘から始まったのだ。


 その商業作家にも、大ファンがいた。読者の彼はニヒルだった。格好いいヤツではなく、「徹底できないニヒル」だった。

 物事に意味はない、価値はないと言いつつも、「あのとき青春を謳歌していれば」と後悔し、「何か幸運なことよ起これ」と願い祈る感じの、ウジウジ振る舞う人だ。


 彼に必要だったのは「かけがえのない錯覚」だった。

 誰かは忘れたけど、小説家がこんなことを言っていた気がする。

 人間など変わりっこないのに成長譚が描かれ、諸行無常の世界なのに永遠の愛は誓われる。

 淡々とした日常から「何かが起こっている」という錯覚を作ることが小説家の一つの仕事かもしれないと。「かけがえのない錯覚」は必要なものだと言っていた。


 錯覚させてほしいから、読書する。

 ニヒルになりきれないニヒルな彼は、「何か価値があることが、起こっている」と思いたかった。彼は、邪魔なニヒルな心を奪っていほしいと望み、本を読んでいる。


 そんな嘘を巡る共依存が、フィクションを通じて、あったりなかったり。


 と、今日は徒然なるままに、ボンヤリと綴ってみた。

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