「誰が語るか」という制約を飛び越えるから
まだモヤモヤとした形なのだけど、覚え書きとして書き残そうと思います。
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正しいことを言ったつもりなのに、
ぜんぜん、分かってもらえない。
そういう体験をいくつか経て、「何を語るか」ではなく「誰が語るか」が大事なんだなと、気づく。
健康の心配をしていろいろ忠告されても、お医者さんの言葉でやっと信用したり。
料理を作らないくせに味に文句を言う父に、イラッとしたり。
偉人の名言を、僕が一言一句同じように語ったって、ぜんぜん有り難みが無かったり。
肩書き、年齢、経歴など、話し手の情報によって、聞き手は解釈を変えていく。
同じセリフでも語る人が違えば、その言葉の説得力がまったく違う。
「先入観を持つことなく、そのまま受け止める」
なんて、人間の脳の仕組みからいって困難だ。だから、聞き手に非はない。
どんなに言葉を尽くしても、相手に理解されない。そのたびに、現状の自分の力が及ばなかったと、もどかしい思いをする。
「僕が語るのでは、駄目なんだ」
そんな諦念が染み付く。
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でも、そんな諦めを“小説”というジャンルは、飛び越えていく。
小説ならば、語り手に誰を置いても自由だ。
一人称、三人称。神の視点。信頼できない語り手。語り手が犯人。
「誰が語るか」という制約を飛び越えて語れるのが、小説だ。
自分が伝えたい思いの丈を、その言葉を語るに相応しい人物に、語らせることができる。
「人称と視点を決めるのが、基本の作法です」
「一人称のメリットはああだ、デメリットはこうだ」
小説を書くときに、テーマの次に上がるような重要な問題になる、人称と視点。「わたし」か「彼」か。
当たり前のように、重要な問題として頭を悩ませるけれど、そもそもなぜ重要なのか。
その答えは、小説が、「誰が語るか」という制約を飛び越えて「何を語るか」を聞き入れてもらう為の道具だからだ。
……と思う。
……という気がする。
■
人称や視点の問題を「読みやすくするルール」「メリットとデメリット」という形で語られがち。
だけど、そもそも小説の存在意義に関わりますよと言ってくれた創作論はあまり無かった気がする。
現実では「誰が語るか」に阻まれて伝わらない想いも、
小説なら「何を語るか」に耳を傾けてもらえる。
なぜ僕が小説を書くのか、という答えの一つになるかもしれない。
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ちゃんと伝わる文章になっているか不安だし、共感できる内容になっているか、ぜんぜん分からないです。
けれど、とりあえず置いといてみます。
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