「実力と自己評価の乖離」と「文字数」

 今日も小説を書けない。ノートを閉じ、ペンを置く。

 文庫ばかり並んだ本棚から一冊抜き出し、裏表紙のあらすじを読む。


《もしかしたら『深夜特急』はとても良いかもしれない。》


 沢木耕太郎さんの日記エッセイ「246」だ。

 そして肝心の「深夜特急」は、僕も手離さない数冊のうちの一つであり、旅人のバイブルであり、今も読まれる名作になっている。


 僕もカクヨムで珍しく執筆できたときは、「良いかもしれない」「ヤバい、いけるわ」とか、呟いて投稿する。そして、微妙な雰囲気を見て、しれっと下書きに戻す。

 基本的に僕は、実力と自己評価が乖離している。


 どこかで聞いた話を思い出す。

 能力が無い人ほど、過大評価する。

 心理学の言葉で「ダニング=クルーガー効果」というらしい。今、調べた。


 思い当たる節はある。

 執筆能力に関して「平均以上くらいには優れてるだろう」なんて思ったりする。「控えめに見積もって」と付け加えたりして。

 誰かにアドバイスしたいし、作品について良し悪しを語りたいし、批判があれば「言われなくても分かってるよ」とか、たぶんムッとする。


 今日も書いていないのに。

 やれば出来るっしょ、とか思っている。

 まったく書いていないのに。


 実績作りもしていないのに、実力もヘッタクレもない。

 完全に優越の錯覚に浸り、そこに胡座をかいている。

 ぶっちゃけ、自分が書けないし書かないのは、実力と乖離した自尊心と、優越感を失いたくない羞恥心によると思う。「山月記」の李徴さんの背中を、僕は追っかけている。


 自分が平均より優れている、という錯覚は誰もが餌食になると聞く。

 傲慢さをうっちゃり、謙虚になる必要がある。

 客観的に見る必要がある。

 でも、芸術の領分である文芸の、客観的に評価出来るところとはなんだろうか。


 とりあえず暫定的に、文字数としよう。

 書いていない人より、書いている人の方が凄いって感覚はやっぱりあるし。

 内容云々、読みやすさ云々は、とりあえず棚上げして言えば、文字数そのものは「伝えたいという気持ちの総量」として、見れる気がする。

 伝えたいことを書き切れるか否かは、技量を差し置いて、まず文章量に依るだろう。1文字より2文字の方が伝わり、10文字より100文字の方が伝わる。

 2文字の「ケチ」より、16文字の「ケチケチケチケチケチケチケチケ」の方がどれだけ相手への憎悪が伝わるか。

 アイスを一口貰えなかった腹いせに、兄に「ケチケチケチケチ」と5分も言い続けたら、堪忍袋の緒がキレて、こってり叱られた経験があるくらいには、よく伝わる。


 世界で一番長い小説は、ブルーストの「失われた時を求めて」。日本語訳だと、400字詰原稿で1万枚。つまり400万字。

 極論を言えば、20世紀を代表する傑作と名高い小説にも、僕が400万と跳んで1字書けば、文字数という一点、その一点のみだが、確実に“超えた“と言えるんだ。やったー。


 ここでイチローの言葉を引用する。

《小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道だと思っています。》


 いつだかに見た、ネットに落ちてた言葉を思い出す。

「文字数多ければ文豪でしょ。酒豪と同じ」

 僕にも文豪への門戸が、開かれている気がした。


 今日も書けない。でも、書こう。

 矛盾を抱えてこそだ。

 文字数を重ねることから始めよう。話はそれからだ。


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