SF観とは、つまり、信仰である。(※個人の感想です)
今日も小説を書けない。ノートを閉じ、ペンを置く。
夜は更ける。僕は、窓の向こうに浮かぶ月を眺めた。
「僕は他人とは月の見え方がちょっと違うだろうな」と思っている。
なぜなら、ジェイムズ・P・ホーガンの「星を継ぐもの」を読んだからだ。読破したあの日、僕はセンス・オブ・ワンダーを通して月の見方が一変した。
SFって面白い。そう思った瞬間だった。SFを中心に読書する習慣が始まった。
海外の作家は難しかった。
SFの読書量マウンティングを僕もしたい! という動機のもとで、はなから名作傑作に手を出した。SFの素養がないので、まったく歯が立たなかった。「一九八四」も「月は無慈悲な夜の女王」も「ニューロマンサー」も、何回、挑戦しても途中で読むのを諦めている。
日本人作家というだけで読みやすくなるのは、やっぱり言語感覚が根っこまで染みついているのかしら。
円城塔、藤井太洋、野尻抱介、エトセトラ……。読むのは断然、日本人作家ばかり。
日本といえば、政治、信仰、野球の会話は、争いになるから避けた方がよいという風潮がある。今どきは、もう野球でそこまで争いになるかは微妙だよなぁなんて思うけど。
SF好きの界隈でも、「“SFの定義”という問いははばかられる」みたいな状況がある。なんだか訳分からないが面倒そう、とか思ったのが最近のこと。そういう点で、信仰であるとタイトルに書いた。別に、政治でも、野球でも、構わない。
もしSF観が信仰だったら。
いつかの未来には、いわゆる今までの意味の信仰は廃れ、どのSF観を信仰するか、みたいな話になっていったりするかもしれない。
例えば「宇宙、ロボット、超能力」と唱えるだけで、SF浄土に行けるというSF観もあれば。
正確で論理的で厳密であれ、とする戒律があり、険しい思索をする修行もこなす、厳格なハードコアSF観もあったり。
「隠れシミュレーション仮説論者の遺跡群が、世界遺産候補になりました」
「スチームパンク勢力とスペースオペラ勢力との10年戦争が、当時は行われていたんだよ」
とか言っちゃって。
僕のSF観ですか?
「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」とかウィトゲンシュタインもそう言ってることだし言わない……(あんまり良く分かってない)。
作家は黙ったらお仕舞いかもしれないが、「してはいけない自慢、説教、長話」
○○とはこういうもんだ、という話をするのは、嫌われる話し方だ。ウィトゲンシュタインも、蘊蓄垂れ流す「自慢、説教、長話」を駆逐したかったのではなかろうな。と飛躍した妄想に転がるところで、今回は終わりです。
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