キャラよ、立ち上がれ! 武器を持て! 「個性礼讚、個性追求、自分らしさってなんだろな」
今日も書けない。ノートを閉じ、ペンを置く。
今日は執筆を差し置いて、より自分の尊厳に関わる大切なことを考えていた。僕は呟く。
「自分らしさって、なんじゃらほい」
(『なんじゃらほい』って、なんじゃらほい)
少年少女は「自分は何者なのか、何をしたいのか」思い悩む時期が来る。
自分が何者なのか分からぬくせに、教室の中では割り当てられたキャラを演じる訳で、まったく個性というのは掴み所がない。
しかし、虚構内のキャラクター達にもまた、やはり個性礼讚、個性重視、自分らしさを求められる。
むしろ現実の僕達よりも、強烈な個性を求められていて、さぞや大変だろう。
でも、キャラ立ちは大切ってよく聞くし……。
キャラ立ち。自分もよく使うけれど、この言葉、よく考えるといまいち分からない表現じゃないですか。どういう意味だろう。
キャラ立ちを、過剰な個性と読む人もいる。
それも好きだけど、個人的には違和感が強い。みんな同じテンションならば良いけど、たまに一人だけマトモだとか、ある集団だけキャラ濃いとかすると、いろいろ浮いて寒く感じる。
個性とは身体だと、国語の教科書で、養老孟司が言っていたのを覚えている。自分に内在するものではないと。
世の中で生きていく上で大切なのは、「人といかに違うか」ではなくて、人と同じところを探すこと、とか。まったく個性的な行動をとれば、最後は精神科の病室にいるとか何とか。うろ覚えだけど。
だから、物語の中で一つの独立したキャラクターと認識させられたなら、もう個性を求める必要は、無い気がするのだ。
■
と、ここまで「キャラの強い個性」に対する否定的な文章を書いたのが、一ヶ月前くらい。
そして、無駄に無敵臭さを漂わせた用心棒が登場する小説を書いたのが、その二週間後だった。
主張と行動が、全然違う。なぜだろう。
最近読んだ『買い物する脳 驚くべきニューロ・マーケティングの世界』という本で、ミラーニューロンという言葉が出てくる。
脳は、他者の動作を観ると、自分自身の体験として脳内にシュミレートするという。
サッカーの試合を見ながら、僕は選手になっている。同じトーンで喜んだり、落胆する。
ロックフェスを見ながら、僕は一流アーティストになっている。酔いしれ、自分はイケテると自信がみなぎる。
共感の源だ。文字でも同じらしい。小説を読み、感情移入するのはその為のようだ。
「梅干し」の文字を見て、唾が出る。
「あくび」を読んで、あくびが出そうになる。
「黒板を爪で引っ掻く」を読んで、不快になる。
経験的に当たり前だなと思うけれど、ミラーニューロンの発見自体は、1990年代と超最近で驚いた。
読むだけでも、体感できるなんて、超てっとりばやい。この先は僕の推測だ。
あたかもそう感じるなら、快感に繋がるものの方が理性が飛ぶので、批判的に読ませないのには効果的。
強烈に偏った思考を突き通せたり、ド変態丸出しでも居場所があったり、俺TUEEEEだったり。
読者は知らぬ間に脳で模倣して快感を得る。
そして、作家も人だから、主要キャラの物語を推敲しながら、自分の脳にエミュレートする。そして幸福感高いストーリー、よりカリスマ性のあるキャラに変更し、また推敲しながら快感を得る。主張と行動が、ずれる。
口では『イヤイヤあんなの苦手です』と言いながら、読んだら読んだで楽しんでたりする。そういうこと、たまにあるな、と思い当たる節がある。
俺TUEEEEやハーレム、異世界。ほんとは僕は違う感じの小説を書きたいけど、敵にするなら予想以上に手強いぞ。
はぁ、かなり、話が逸れました。
もしかしたら、強い個性は、読者に快感を与える為にあるのかもしれない。
これ、僕の中では凄く目から鱗なのですが、みんなの中では、けっこう当たり前の話なのでしょうか。
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