第17話 シュレーディンガーが殺した猫①

 ―—ユイは白装束を纏い、床に敷かれた布団の中で静かに寝息を立てている。


 部屋は五畳程の小さく質素なものであった。家具らしい家具と言えば服をしまう箪笥と、部屋の隅で長方形の小さな気の机がちょこんと佇んでいるだけである。窓も小さく、顔程の大きさしか無い。まるで独房の様だ。


 するとしだいに都市の深くから工場の機械達が静かに唸り始める音がした。次に懸垂型車両モノレールが愉快な金音を遠くで鳴らすのが聞こえる。次第にそれらの音はクリアになり、次に人々の声があちらこちらで目立つ様になってきた。


 街が廻り出した。


 東方神社は都市のど真ん中、高層建築物の少し高い所、街一帯が見渡せる様な、そんな所に建っている。だから朝になれば多少は騒がしくはなる。それをユイは神社を建てるには余りに似つかわしく無い、不遜とも捉えられる場所だと感じていた。


 ユイは気だるそうに身体を起こし、窓から射し込む僅かな光を見てから呟いた。


「朝か……」


 未だに昨日の出来事を思い出すだけで吐きそうになる。それをぐっと抑え込んで、ユイはようやく布団から出た。ひどい倦怠感があり、ふらふらする。


 昨日は殆ど寝られなかった。そもそもあれだけの事があって寝付ける筈が無いのだ。けれどそんな事は関係なく、日常は容赦無く廻り続ける。どうしてだろうか、賑わう街の音が、窓から見える澄んだ景色が、胸に響く。息継ぎを逃した。そんな気がした。


 しかしそうしている間にも時は過ぎていく。


「そ、そうだこうしちゃいられない!」


 それに気が付いて、慌てて身支度をしようとしたその時だった。足元に何やら小さなものが見える。茶色く、フワフワした毛を持ったこの子を見間違う筈が無かった。


「フ、ファローさん!」


 その姿を見てユイの顔は自然と喜びに変わり、少しだけ涙が溢れた。


「生きてたんだ……良かったっ……!」


 少しだけ立ち直れた気がした。この子は今となっては唯一残された家族の様な存在だ。ふと、その家族と言う単語を思い出して、ユイはハッとする。


「そうだ、私は孤独になった。けれどそれは私に限った事じゃない」


 九十九の境遇もユイと同様だったように、もしかすれば木虎も孤独な存在なのかもしれない。九十九は今を受け入れろと言った。ならその第一歩として行う事としてできる事は、人を受け入れる事ではないだろうか。


 ユイは意を決する。


「こうしちゃ、いられないよね」


 ファローさんを撫でてから、直ぐにまた身支度に戻る。そしてユイは制服に着替え終わって九十九の部屋を訪ねるが、ドアをノックしても全く返事が無かった。


「……あれ、もう先に行ってるのかな?」


「九十九なら先に行ったよー」


「え?」


 振り向けばそこには金髪の少女がいた。彼女は後ろで結った髪をふらふらと揺らし、目は半開きで随分と眠そうにしている。ユイが記憶する限り、確か猿飛と東方に呼ばれていた。


「お、おはようございます!」


 ユイは無駄に気合いを入れていたからか、空ぶった挨拶になってしまった。果てには、へへへと、気の抜けた笑いまで付け加えてしまった。


 それを見た猿飛は一度首を傾げる。


「おー、お前さんはユイだっけ? このペースだと遅刻だぞー?」


 冷静になれば今からここを出なければ学校に遅れそうな時間だ。九十九が先に行くのも無理は無い。


 そして猿飛はユイに何かを投げて寄越した。慌てたが、何とかそれを掴む。よく見ればそれは箱に入った、棒状の栄養機能食品だった。


「朝食さー。食堂行ってないでしょー?」


「あ、ありがとうございます」


「構わないよー。お礼よりそれを食べながらで良いから早く学校へ行った方がいいんじゃない?」


「さ、猿飛さん学校は?」


「私? ああ、私は不良少女だから昼からで良いのさー」


 そして欠伸をして猿飛は何処かへ行ってしまった。掴みどころが無くて、随分と変わった人だなと思いながら、部屋へ戻っていく猿飛をしばらくは眺めていたのだが、もう登校しなければならない時間である事を思い出し、こうしてはいられないとユイは慌てて神社を飛び出した。


 神社から駅まではそう遠くなく、この駅から学校まで懸垂型車両モノレールの走行区間は短いものだったので、ユイは何とか遅刻せず学校にたどり着いた。


 しかし、本当の問題はここからだった。


「あ……」


 昇降口に木虎がいた。


 そして一瞬だけ目が合ってから、直ぐに目線を外されたので、気まずい空気になってしまう。それにめげてはならないと、ユイは慌ててまた声を掛ける。


「お、おはよう」


 だが木虎は振り向いたものの、その返事に答えなかった。素っ気ない態度。間に厚い壁を感じる。


 しかしそれは今思い返せば、当然の事だ。昨日ユイはあの世へ向かう前に木虎に好き放題文句を言ったのだ。この態度も頷ける。それを思い出して、ユイはどっと汗が噴き出した。申し訳無さで頭の中がいっぱいになる。


 だがここで折れてはいけない。過去を後悔しても、受け入れる事は忘れてはならない。ならば、なおさら自分からこの関係を直さなければならないと、木虎とは入学当初のようにまた仲良く話したいと、ユイはそう思い、少しはにかんでこう告げた。


「昨日は……強く言ってごめんね」


 しかし木虎の態度は淡々としていて、「構いませんよ、こういった事は慣れていますから」そう言いながら、冷めた目で靴を履き替える。


 その木虎の姿は、ユイに対して壁を作っている態度にしか受け取れなかった。しかしこれごときでユイも折れる事は無かった。靴を履き替えてからユイを無視するように直ぐに教室へ向かおうとした木虎を見て、ユイは慌てて靴を履き替え、木虎を小走りで追いかけてから寄り添うように一緒に歩き出した。


 しかし横に付いて行ったところで、話題が急には思いつかず、結局気まずくなってしまう。とにかく話題を探そうとうんうん唸った結果、どうだろうかと思いながらも昨日の事を話す事にした。


「昨日の木虎さんの戦ってる姿、凄かったよ。あんなの私には真似できないって言うか……」


「そうですか」


 また素っ気なく返されてしまった。


「いや、その、木虎さんは私と違って凄いから……だ、だから色々戦い方を今度レクチャーして欲しいかなー、なんて」


 しかしそんな態度に対して木虎は、「でもいいんですか? 私はユイさんの人生を狂わせましたよ」随分と意地悪な事を言うのであった。


 確かにそれは許し難い事だ。しかしそれは東方からの命令で、本人が望んでやった事では無い。加えて木虎も訳ありだと思うと責められなくなってしまう。


 そして言葉に詰まってしまい、ついまた黙ってしまう。するとそのユイの困り果てた様子を見て、どう感じたのか分からないが木虎はこんな事を言い出した。


「私はただ、何故そんな人間に気さくに話し掛けてくるのか分からないからこんな態度を取っているだけです」


 ユイはハッとする。ユイの変な気遣いが逆に木虎を変に気を遣わせていたと、ようやく気が付いたのだ。ユイは今度は木虎の気遣いの言葉に応えなければならないと思った。しかし、思って、悩んで、気を遣って、不器用なユイはついこんな事を告げてしまう。


「そ、それは木虎さんが凄いから……」


 その瞬間、何故か木虎は不機嫌そうな顔になった。何か言ってはいけない事を口走ってしまったとユイは少し慌てる。


 すると木虎は少し俯いてから、「私は天才ですから」そう呟いた。これは気を紛らわすための木虎の冗談だった。そんな事は百も承知で、それを察して面白く答えるのが定石なのだろう。しかしユイにはできなかった。いや真面目な話をしたくなったのかもしれない。よってユイは、誤った事だと知りながら、自分の弱さを漏らしてしまった。


「そ、そうだね……いや実際そうだよ。私はどっちかって言えば無能タイプだから逆の立場の人は映えて見えるって言うか……」


 ユイは普段であればこんな事は言わない。しかし言うべき雰囲気だと判断をして、ユイはつい漏らしてしまった。しかし実際はその判断は間違っていて、しばらく二人の間には沈黙が生まれた。


 こつこつこつ、こつこつこつと靴が灰色の床を叩く音がする。


 すると不意に木虎が口を開き、「有能とか、無能とか関係ないですよ。ユイさんはユイさんです」と言った。


 その言葉を聞いて返答に随分時間が掛かったなと、ユイは思った。きっと嫌な思いをしたからだろうなと考えた。そうやって無意識に人との距離を測定している自分にも嫌気がさした。そして丁寧な返答をした木虎を羨んだ。


 そうごちゃごちゃと考えていると、「ユイさんはきっと自分の事が嫌いなんでしょうね」ずばり、見透かされた様に言われてしまった。


 やってしまったと自覚する。じわりと体が熱を持って、全身から汗が噴き出してきた。自分の無能さを晒して、また相手から離されていく、そんな自分の姿が浮かんだ。


 そうやって怯えて、何も言えなくなったユイを見て木虎は、「来て下さい、足を止めないで」と強く言った。


 慌てて付いていくと木虎はトイレに入る。どういう事かと考えていると木虎はユイの腕を引っ張って個室の中に引き込んだ。しばらく木虎は真っ直ぐユイを見つめたままで、少しユイは妙な気持に駆られて顔が赤らむ。するとどういう事か、木虎は自分の上着を脱ぐと自分のシャツのボタンに手をかけてそれを外し始めた。


「ちょっ、ちょっと、ま、待って!」


 ユイは両手で目を覆い、後ろを向いた。しかしそれと同時にユイは木虎に腕を引っ張られて、木虎の胸にユイの頭が押し当てられた。


 ユイは余りの突然の事に混乱する。しかし、少ししてから何かが妙だと感じた。そう、何だか木虎の体がやけに冷たいのだ。そしてその違和感は木虎の言葉によって確信に変わる。


「胸の音聞いてみて」


 そう言われて、耳を澄まして、ユイは息を呑んだ。


「これ……まさか……」


 そこから微かにモータの駆動音がして、血の気が引く。これを聞いて理解した。木虎の胴体は機械で構成されていたのだ。


「首から下のほとんどが絡繰りで、人の肉の部分はかなり少なくなっています。ただ、一応ご飯とかは食べられるし、人としての機能は果たしています」


「ど、どうして……こんな……」


「私が東方だから。そして東方の掟を破らされたから」


「え……?」


 ユイはそれを聞いて青ざめた。そして木虎は無表情でありながら何かを訴えかける様な顔をしていて、ユイにはそれを覗くと、そこに東方の組織が抱える深淵があるように見えた。今まで見えなかった闇がそこには広がっていた。木虎が東方であった驚きもあったが、同時に木虎に対して行われた非人道的な事は、ユイを凍り付かせた。


「私の父が他の神社に東方の血を売った。訳も分からず、私の身体にはある男の血統が流された。結果、私の家族は皆殺しにされ、私もその罰を受けるはずでしたが、東方にとって私の実力が惜しすぎた。だから私は絡繰りにされてでも生かされています……これでも私を私として見ていてくれますか?」


 そう木虎は切なげに、囁くようにそう言った。それを聞いて息ができなくなってしまった。今にも壊れてしましそうなこの身体。あの強い木虎を支えるには華奢で、繊細過ぎる。


 ユイを掴む腕が緩んだのでユイは同時に顔を上げる。その時に見えた木虎は、じっとユイを見つめたままだった。


「少しだけ躊躇いました?」


 そう聞かれて少しユイは焦った。少なからず自分の中にあった感情を突かれたからだ。黙っていた方がいいのかもしれない、けれどユイはそれを隠す気にはなれなかった。ここまで見せてくれた人の心に対して嘘をつく事は何よりも失礼だからだ。いや、そんな聖人ぶった答えよりも、嘘をつく事が苦手だからだと言った方が良いのかもしれない。


「い、いや少し焦ったけど木虎さんは木虎さんだし、一緒に居たいって思うし……でもゴメン、私の素振りが不愉快に感じさせたかもしれない」


 上手い嘘がつけなくて、ユイは不器用な対応をしてしまう。すると木虎は落ち着いた様子でこう答えた。


「いや、むしろ逆です。私は自分に不自由があると知っている。それを知った上で私に素直に接しようとしてくれる事が嬉しいから。むしろそれを見て聖人ぶられたら私はユイさんを軽蔑していたかもしれない。……けれど」


 けれど? 一瞬、安堵しかけたユイをまた不安の谷へ突き落す。その言葉に続くものは大抵ろくな内容ではないまた私は何か変な事を口走っただろうかと何度も何度も考え直す。そして木虎がまた台詞の続きを語りだしてから、それを聞いてユイは愕然とした。


「ユイさんは何で自分の事がそんなに嫌なんですか?」


「え……」


 そうだ贅沢すぎる。ユイは自分の悩みの小ささに言葉を詰まらせた。


「ユイさんは勘違いしているかもしれないけど、私はこの身体に悩んでいる訳じゃない。こんな事でしか自分の事を話せない私が嫌いなんです」


 それはユイも同じだ、けれど木虎もその悩みを抱えていた。ユイには木虎そのものが見えていなかった。だからユイは木虎の良かれと思う所を立てていたと思っていたのだが、実際は傷口に砂を塗り続けていた。それが分かった時にはもう遅く、木虎の話には感情が乗り、途切れる事はなくなり、しばらくユイを責め立てた。


「私はあの世では評価できるかもしれない。けれどこの世の中が求めている評価を私は持っていないし奪われました。神様は皆に平等に力を与えてくれている。けれど世の中が不平等なんです。ユイさんもきっとそれが不満なんじゃないんですか?」


「うっ……!」


「だから私の事を勘違いして、すがっているみたいだけど、私は貴方を助けられない。だから私をそういう目で見るのは止めて下さい」


 はっきりとそう言われて、ユイは黙る事しか出来なかった。


 全く以ってその通り。その通りなのだが、ユイはそんな動機で木虎に近づいた訳では無い。ユイは木虎の強さに惹かれていて、それに付いて行けば答えをくれるとは少なからず考えていた。けれどそれは木虎によって思い起こされた後付けの思いで、真意はただ純粋にまた仲良くしたいだけなのだ。


 ただこの様子ではそれを説明する事は到底できないだろうと思ってしまった。

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