第18話 シュレーディンガーが殺した猫②
「私はこんな半死人の様な姿で生かされて、あの世の為に生きる存在で、この世に来れば汚れ仕事をさせられる」
木虎は先ほど脱いだ服を着ながらそう言った。
「……私の方が余程酷い存在ですよ」
更にこう付け加えてだ。結局、ユイは誤解を解かないまま二人でトイレを出てしまった。
思えば出会った時に感じた、同じ空気を感じながらもどこか壁を感じた理由が分かった気がした。これはユイと木虎の決定的な違いがあるからだとようやく理解した。
それは自分の事を嫌うにしても、『自分を理解できず嫌うか』、『自分を理解してなお嫌うか』と言う事だ。
だからユイは余計に辛かった。自分を嫌いになる薄い理由を深刻に悩んでいる木虎にぶつけてしまったからだ。
ユイは横目で木虎を見る。
彼女は人形の様だ。完成された美しさと、触れれば壊れそうな繊細さを兼ね備えている。けれど物を言わぬ人形。それを理解した上で木虎を見るとまた、辛くなった。
そう考えているうちにもう教室へ向かう階段を上り始めている。
「ねぇユイさん」
ふと木虎が話し掛けてきた。
ドキリとしたんだ。
「な、何かな?」
ユイは腫れ物に触れるように、恐る恐る聞き返した。しかしそんな対応は今更だった。木虎の瞳には、もう道が映っている様な気がしてならなかった。そして木虎はまるで、幕を下ろす準備をするような、そんな事を言いだしたんだ。
「もう私達、あの世で知りましたよね? 人の心なんてただのエネルギーの集合体で、脳は心を繋ぐ首輪。人々は脳に走る信号に支配されている。エネルギーを摂取すると快感が走り、何もかもがどうでも良くなる。たちの悪い首輪」
これを聞いて違和感が二つ。
一つは急に妙に饒舌になったなと言う事。もう一つは、何故急にそんな事を話し始めたのかと言う事だ。何故急に、人の心を軽視する様な事を言うのかと、ユイは感じて、次に嫌な予感がした。
「人は死ねば楽になる。けれど死ねない。痛いから、怖いから、未練があるから。だから人々はこの世界から抜け出せない。所詮人は運命に脳と言う首輪で繋がれて肥やされている。前にも言いましたね、人は運命の家畜なんです」
「……木虎さん?」
「私ならできる」
「え?」
何だ。何でそんな事を言うんだ。冷汗が止まらない。胸の動悸だってブレーキが効かなくなってきている。
「できるって……そんな事言わないでよ」
震える声を絞り出して、この嫌な予感が現実にならない様に木虎に言葉を掛ける。しかし木虎は冷めていて、「何故?」と簡潔な言葉を投げた。
「何故って……それは木虎さんがまるで……」
それ以上は言えなかった。それが事実になりそうで怖かったからだ。けれどここまで口走ったら、もう殆ど答えを言っている様なものだった。だからなのか、少し間を置いてから、木虎はユイにこう告げた。
「あの世界で強いから何? 優秀だから何? そんなもの、死ねば全てゴミになる。死ぬために生きるこの世界の何が楽しい?」
愕然とした。まさかここまで木虎が世の中に失望しているとは思いもしなかったからだ。
そしてユイはある事に気が付く。私達の教室の階はとうに過ぎている事に、だ。
「木虎さん……」
ユイは木虎に戻るように促そうとしたが、それを遮る様にこんな事を語り出した。
「私達は誰かの主観で生きている。評価されなければ価値が無く、また評価されてもその評価に縛られ続ける。こんな世界なら誰も助からない。人を見る目に定規を持ち出して、測定結果は有能か無能か。こんな世界なら……誰もいらないんですよ」
その次の瞬間の事だった。突然木虎がその場から走り出したのだ。それを見てユイは慌てて階段を駆け上る。しかし木虎の足は早く、背中が次第に遠くなる。このまま階段を昇ればたどり着くのは屋上だ。そして、その結論はどうしても、最悪のものしか頭の中で導き出せないのであった。
木虎が勢い良く開いた扉を抜け、正面を向くと、そこには屋上の柵を既に越えた木虎がいた。
「こんな事間違ってる……」
ユイは息を切らしながらこれまでに無い程に強く木虎を睨め付ける。しかし木虎は気にも留めない様子で、
「間違ってる? 私には何が出来れば正しいのか、悪いのか、もう分からない」
そう答えた。そして今まで見た事のない必死さで、力強い声で、木虎は言葉を続けるのであった。
「このまま生きていてどうなるんです? あんなに辛くて苦しいものに利用されるだけが全てなんておかしいんです。もう嫌なんですよ、あんなもの人助けでも何でもない! ……なのに、あそこは私の映える場所。憎むべき場所が私の存在意義になっている事に何度も腹を立てた。そしてそれに甘んじていた私は……ついには私と同じ境遇の人間を私の能力で追いやってしまった! ユイさんの父親をこの手で最後に手を掛けたんです!」
「やめてよ……もう何も言わないでよ、木虎っ!」
胸を締め付けられるような思いだった。木虎は好きでもないのに、やりたくもないのに、誰の為でもない行為を、それが優れているからと押し付けられて、それを何度も繰り返しながら生きてきた。その事を考えると、まともに彼女の事など見る事ができなかった。
「……ユイさんだって私の力が優れているから生きて欲しいって言っているんですよね!」
「違う! 私はただっ……!」
「黙って下さい! 私の存在が周りから殺戮人形だと思われるくらいなら……死んだ方がマシなんですよ!」
遂に言った。死ぬんだと、明確に。
「お願い……止めて……止めてよっ!」
しかしユイの声は届かない。木虎の目は虚ろで、眼下に広がる世界にしか興味を向けていなかった。今の世界への興味など微塵も無くなっていた。
どうすればいい、どうすればいい、どうすればいい? どんな行動を取れば、言葉をかければ、木虎は助かるんだ?
だがユイはそんな気の利く言葉を持ち合わせていなくて、胸でつかえた言葉がユイの心を焼いた。そうウダウダとしていたその時、ついに、木虎の体が揺れたのだ。
流石にマズいと思い、咄嗟にユイは走り出す。間に合えと、木虎へと手を伸ばす。
しかし木虎の姿は遠く届かない。
そして次の瞬間、木虎の身体は吸い込まれる様に、屋上から落下した。
嘘だろうと思った。全身から力が抜ける感覚があった。木虎はこのまま塵になる。こうなれば呼び掛けなどもう意味は無いと知っていた。しかし、ユイは何故か諦め切れなかった。このまま木虎を死なせる事が許せなかった。
せめて、せめてでも世の中を忌み嫌ったままでいて欲しく無くて、柵から身を乗り出して、「私は木虎さんと見えるこの世界で生きたかったのにっ!」と、拙い台詞を吐いた。コンバート出来ず胸に閊えていたものだ。
その時、木虎の顔が見えた。何故だろうか、聞いた木虎は目を見開いてどこか少しハッとした様だった。次に、「馬鹿」と言う声が聞こえた。吐き捨てたような涙声だ。その堕ちていく木虎の顔は少し歪んで見えた。そして次第に木虎は小さくなって、闇に飲まれて、遠くで鈍い音がした。
「どうして……」
ユイはその場で崩れ落ちた。
「何で死ななくちゃいけないっ!」
これで二度目、小林先輩だけでなく木虎さんも見殺してしまった。
頭に激痛が走る。
無能、無能、無能。
罵倒が頭の中に響き渡る。
「私が無能だから……私のせいでっ!」
死んだ木虎は言っていた。
『有能とか、無能とか関係ない』
しかし、「……無能だから助けられなかったんだってば!」そう言って床を殴りつけた。
そんな理論は言い訳だって分かっている。けれど自分を否定せずにはいられない。だから、無能の罪を埋めるために、ユイはせめてもの事をしなければならないと思ったんだ。
「……私なんか死ねばいいんだ」
それは最悪の答えだった。ユイはゆらりと立ち上がり、にたりと笑う。
「そもそも木虎は出来る人間じゃないか」
ふらふらと身体を揺らしながら木虎が落ちた柵に近づいて行く。
「そうさ、有能には馬鹿の気持ちが分からないんだ……」
ユイは柵に手を掛ける。
「馬鹿は悲しいけど死んでも治ら……」
そう呟いている最中の事だった。
「ホンマにええんか?」
背後から声がした。ユイは勢い良く振り向く。
「響……?」
そこには鋭い目付きでユイを見つめる九十九の姿があった。しかしユイは吐き捨てる様に、ハッと笑う。そして柵に身を預ける様に寄りかかり、悲しみの言葉を垂れ流した。
「……私は無能だから木虎を見殺しにしてしまった。私はこれ以上生きていてもみんなにロクな事をしない。そして私に関わりたいなんて思わなくなる」
しかし九十九はその様な態度を取るユイに対して、ゆっくり近付きながら、目を見て、真剣にこう語り出した。
「そないな事誰が言うたんや。この世界の何万、何億の人間がお前に言うたんか?」
「少なくとも何人かは言うっ! そもそも言われた事が……」
ユイはハッとして直ぐ両手で口を塞いだ。何でそんな事を言ったのか、自分でも分から無い。そうだ、この自信の無さは経験からがあるから、こんなにも強く言えているのだ。しかし、だからと言って理由を言うつもりまでは無かった。
「言わせるな……」
今でも覚えている。昔に、私は動きの鈍い、こんな人間だから、それを理由に文句を言われた事を。現に今だって東方からも、小林からも、見下されて、バカにされて、それでも頭の動きの鈍い私は言い返せなくて、受け入れるしかなかった。よってユイは今まで大人しく生きるしか無かった。
「もう私に何も言わせるな……私の事を話させるな……もう私に近付くなっ!」
何故そんな事を言うか、それはもう自分の無価値さに絶望したくないからだ。ひたすら非難を受け入れ続けた自分は只の容れ物だと、九十九にバレたく無かったからだ。
私の事をもう分かって欲しくないからだ。
私の事は知れば知る程に、浅い人間だと気が付いて欲しくないからだ。
そんな事を考えていたら涙が溢れてきた。
そうだ私はいつも私の側にいて欲しい人間程、私の存在を遠くに置いていたのだ。
惨め過ぎる。惨め過ぎるのだけれども、九十九はなおそれでも真っ直ぐユイを見つめ近づいてくる。
「来るな……来るなっ!」
ユイは何度も、何度も払いのける様に手を振る。自分を見捨てて欲しくないが故に、避ける。その矛盾に蝕まれ、心が壊れそうになった、その時だった。
何か暖かいものがユイを包み込む。胸元を見ればそこには九十九の頭があり、ユイを抱き締めていた。そしてこう言ったのだ。
「何でや、何でそないな態度を取るんや……反省せなあかんのはウチやで。ウチらがユイの家族にした事を分かっていても、ユイは我慢して戦った。小林さんから受けたあの姿を見てなお、何も言わずウチに付いて来てくれた。こんな人をウチが大切にしとうないと思うか? 関わりたないと思うかっ?」
「でも私は無能で……」
九十九は強く首を横に振る。
「有能無能なんてあらへん。人の価値やら存在やらのそないな不確かなものを有能、無能で線引きするなんて間違っとる。ユイはユイだからこその良さが、簡単には説明できない何かがある。だから一緒にいたいんや。それでも誰かがユイを無能とバカにしたらフォローしたる! 後ろ指さされたら胸張って横に並んで、この辺り一帯を歩いたる! ……それとも何や、ウチじゃ不満か?」
何だろうかこの気持ちは。胸につかえていたものが
九十九は言葉を続ける。
「……なぁユイ、そもそも自分の良さとか自信なんて自分じゃ分からへん。ウチも言葉で自分の良さを一つ一つは説明でけへん。けどな、それを一切探さへんかったり、それが望む望まないに関わらず、有能無能言うて向き合わないのは卑怯やで。ウチからすればさっきからのユイの言葉は自分を探したくないか、拒否しているかにしか聞こえへん」
その言葉はユイに強く響く。そうだ、自分を初めから分かっている人などいない。
偶々ユイが初めに見つけた自分が『弱さ』だっただけで、まだ見ぬ可能性が眠っている。だがその見つけた自分の捉え方も、向き合い方も悪かった癖に、自分は何もできないから諦めるという事は筋の通らない話だった。
ハッキリ言えば無能さを理由に、甘えて停滞していた。そしてそれは僅かにでもユイに自覚があった事だった。
「今更……遅くは無いのかな?」
そう言ってからユイの頬に一筋の涙が流れた。
「それはウチが決める事とちゃう。言うたやろ、そないな不確かなものを線引きする必要あらへん。早いも遅いも、若いも老いも関係あらへん。ユイはやりたいんか、嫌なんか? 本質はそれやろ」
「……そっか」
その瞬間、体から一気に空気が抜けたような感覚がして、ユイは崩れ落ちる様にしてその場に座り込んだ。ユイは涙を拭い、改めて九十九と向き合う。
「響……ごめん……」
「全く……事が終わるまで謝んなやって言うたやろが」
「事が終わるまで?」
「せや、木虎を蘇らせるまでなァ。ウチは今の夜、阿修羅を使ってあの世へ行き……木虎を生き返えらせる」
ユイはハッとする。そうだ、たとえ死んだとしても、あの世へ行ける装置があるではないか。確かにシステムを使えば木虎をあの世から連れ戻す事ができる。
九十九は言葉を続ける。
「木虎は身体の殆どが機械品やから身体の破損は大きくても修理すればどうにでもなる。……ユイ、お前は?」
その問い掛けにユイが悩むはずも無かった。
「ねぇ響」
「何や?」
「無茶してみたい」
ユイの決意に、そっと、九十九はそう応える。
「ええで」
静かに戦いの幕は開いた。
木虎は、嫌うこの世に戻る事をどう思うだろうか。
分からない。
しかしユイは木虎の最期の言葉にどんな意味があったのか確かめなければならない。
そう、ユイの木虎と一緒に生きたかったとの言葉に対して、木虎は落ちながらも涙声で馬鹿と言った。あれはまだこの世に残りたいと言うサインではないだろうか?
これも分からない。そう、分からない事だらけ。
けれど、いや、だからこそ知りたいのだ。私が私を嫌ったが故に隠した自分がある様に、木虎も隠している何かがある。
もちろん答えなんて出なくていい。ただ今度は、隠す事が自身を苦しめる呪いになっている事を木虎にも分かって欲しいから、木虎は木虎なりに答えを出して欲しいから、伝えに行くんだ。
だからこそ、あの時は正確に言え無かったあの言葉を今度は木虎の心に響くように告げなくてはならない。
そして木虎が木虎を取り戻せるようにする為に、私達は、あの世へ向かうんだ。
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