第6話
私が目覚めてから数日が経った。朝起きると毎日ナースコールで連絡をいれ、その度に医者や学者や研究者らしき人たちが入れ替わり立ち換わり病室に入ってきては質問し、また他の部屋へ移されて身体を調べられたり、色んな実験のようなことにも付き合わされた。
病み上がりということもあって、それほど長い時間は拘束されなかったけれど、それらの検査が終わった後、私はいつもクタクタになって、ベッドへ倒れこむように横になり、気が付くと次の日の朝を迎えているのだった。
今朝の私は、目を覚ましたことを先生には知らせず、起きてからずっと携帯電話の画面を睨み続けていた。それは「何か欲しいものがあるか」と先生から聞かれた時、真っ先に答えたもので、私は用意してくれた目新しい機種の操作に手間取りながら、白い画面に映る浩樹君宛てのメールを何度も読み直していた。
宛名: 浩樹君
件名: 久しぶりだね。
内容: 浩樹君、こんにちは。いきなり驚かせちゃってゴメンね。えっと、一応、三年振りっていうことになるのかな。私のこと覚えてる?
知ってるかもしれないけど、私は三年前に事故にあって、それからずっと意識不明のまま眠り続けていたの。
ところが何の奇跡か偶然か、つい先日、私は目覚めたんだ。どうして目を覚ますことが出来たのかもまだ分からないんだけど、ほんと、冗談みたいな話だよね。私自身、未だに信じられないというか、ピンとこないんだけど。
お父さんもお母さんも死んじゃったし、色んなことが起こりすぎて戸惑ってばかりだけど、私はこのとおり元気になったから、心配しないでね。
あ、もう私のこと忘れてたかな? だったら馴れ馴れしくしてゴメンね。
でも、もし私のことを覚えていてくれたら、一度でいいので、会いに来てくれたら嬉しいです。
藤咲燈子
送信ボタンにカーソルを合わせたまま、どのくらい時間が経過したのか。ベッドの上で横になりながら、私は携帯電話をずっと握りしめていた。
親指にほんの少し力を込めれば、メール機能は三年の月日なんて関係なく実に簡単にメッセージを届けてくれるだろう。だからこそ、私はボタンを押すことが出来なかった。もしメールアドレスが変わっていたら? もし私のことを本当に忘れていたら? もし私のことを覚えていて、それでも来てくれなかったら……?
そう考えると、恐くて、怖ろしくて、私は丸まって自分の身体を強く抱きしめた。携帯を握った手が汗ばみ、足先から徐々に身体が冷えてゆく。
「浩樹君……」
そのとき病室の扉が開く音がして、私は跳ね起きた。しかしそこにいたのは浩樹君ではなく、先生だった。
おそらく私はあからさまに失望した顔つきだったのだろう、先生は少し困ったように微笑みながら私に聞いてきた。
「おはようございます。身体の具合はどうですか?」
「あ……はい。悪くありません」
「そう。それは良かった」
連絡を入れなかったことを怒られるかと思ったけれど、先生は何も言わなかった。
「今日は君の身体のことについて、少し伝えておきたいことがありましてね」
「私の、身体のこと……」
嫌な予感がして、私はとっさに心を逃がした。簡易椅子に座った先生が、頷いて続ける。
「先日の検査の結果、君が植物状態から覚醒できたのは、最近新たに開発された抗生物質の中のある成分が、君の脳内で何らかの化学反応を引き起こした結果であるということが分かりました。
床ずれを防止するために投与したのですが、偶然、君の脳を活性化させる作用を持っていたようです。薬のどの部分がそういった働きを持っているのかはまだ分かりませんが、これは非常に興味深い事例で、今後の医学の発展にも大いに影響を与えるでしょう」
私は先生の話を黙って聞いていた。視線の先にしおれかけたくちなしの花が見えて、そろそろ捨てなければいけないけれど、何となく可哀そうだな。なんてことを考えていた。
「ただ、これは言いにくいことなのですが、まだどういう原理で君が覚醒に至ったのかはっきりと分かっていないところが多いのです。分かっているのは、この新しい抗生物質が植物状態の君を覚醒させたという事実。そして……、君が起きていられるのはおそらく薬が効いている間のみであるということです」
「……それって、どのくらいの時間なんですか」
「一日およそ三時間ほどではないかと思います」
「三時間──?」
その後先生は「お気の毒です」とか「必ずあなたを元の身体に戻します」とか、同情と自身のいたらなさを詫びる言葉をひととおり告げて、それでも私が無反応なのを見て取ると、頭を下げて部屋から出て行った。
逃げた心が現実に追い付かれて、私はパニックに襲われないように何とか表層だけでも平静を保とうとしていたが、ほとんど何の効果もなかった。
──一日に三時間だけしか起きていられない。それってどういうこと──?
──二十四時間のうち二十一時間は眠っているっていうこと──?
──私の時間は他の人の八分の一しかないってこと──?
──たった三時間で何が出来るというの──?
──私はずっとこのままなの──?
考えても考えても自分の置かれた状況を理解することは出来ず、むしろ考えるほどに先生が告げた話は必死に逃げる私の心へどんどん迫ってきて、漠然とした恐怖で胸の奥を真黒に塗りつぶしてゆくのだった。
──いやだ。怖い。何も知りたくない。知ったところで傷つくだけなら何も知らないままでいい──。
私は膝を抱いたまま目をつぶった。自分ではどうしようもない悲しい出来事──大抵それは転校して友達と別れることだった──があるといつもしているように、私は心の中で防壁を組み上げていった。心を渦中の外に置いておくことで精神の平衡を保つという、緊急避難行動のようなもので、卵の殻の中にいるイメージに近い。
──ここでじっとして嵐が通り過ぎるのを待っていればいい。痛みも、苦しみも、悲しみも、やがて消え去ってしまうときがくるまで──。
私は先生が部屋からいなくなると、ゆっくりと窓際まで歩き、落ち着いた手振りで、くちなしを窓から捨てた。三階の高さから落ちてゆく白い花は、風に揺られながらすぐに見えなくなった。
花を捨てた後も、くちなしの香りはしばらくの間部屋の中に残っていて、私はその目に見えない優しさに包まれながら、入道雲のかかった青空をずっと眺めていた。
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