第49話
病院へ着くと、俺たちは先生のいる医務室へ真っ直ぐ通された。てっきり父親の病室に案内されると思っていた俺は、少し戸惑い、落ち着かない気分で椅子に腰掛けた。
先生は軽く会釈をしたきり、黙ったままパソコンの画像データをいくつも画面に出し、大きくプリントアウトしている。その間、俺も母親も“これは想像以上に悪いのかもしれない”と、不安な気持ちがどんどん膨らんでいって、しきりに肘やももをさすってばかりいた。
「これを見て下さい」
先生がふいにプリントアウトした紙を俺たちに差し出した。それはレントゲン写真の陰影をより細かく鮮明に写したような白黒の写真で、一部にパソコンで入れたと思われる赤丸がしてあった。
「先生、これは……」
母親がやっとという感じで声を絞り出すと、先生はごく冷静に答えた。
「これはMRIといって、全身を輪切りにするように撮った磁気写真です。その印があるところは肝臓なのですが、大きな腫瘍が見られます。精密検査をしてみなければはっきりとは言えませんが、おそらく悪性腫瘍──癌である可能性が高いと思われます」
思いのほかあっさりと言われて、俺も母親も一瞬呆気にとられた。映画やドラマのように医者が言いづらそうに深刻な顔付きで告げるイメージとは遠く、先生の言い方は事務的で、容赦なかった。
けれども現実はこんなものなのかもしれない。患者の家族に必要以上のショックを与えないように、わざと感情を廃しているということもあるだろう。
それでも「ああそうなんですか」と簡単に受け入れられるはずもなく、逃げ場を求めるように視線を写真にやると、ピンポン玉くらいの大きさの白い瘤のようなものがくっきりと写っていて、素人目にもこれが決して小さなものでないことは明らかだった。
「ともかくまずは精密検査をしますので、待合室でお待ち下さい」
そこからは実に淡々と、本人はそっちのけで、検査の結果──やはり癌だった──から入院の手続き、必要な書類一式や、癌や入院についてなんでも相談出来る窓口の紹介まで、流れるようにやりとりが行われ、俺も母親も不安に沈む気持ちになる暇さえなかった。
諸々の必要なことを終えて、俺たちはようやく父親の病室へ向かった。病院へ着いてからすでに三時間近くが経っていて、慌ただしさからまだ現実を受け止め切れないでいる俺たちがそろりと病室へ入ると、父親は眠ったままベッドの上で点滴を打っていた。窓のない、壁や床をクリーム色で覆った病室は、飾り気がまったくないせいで、四隅の小さな影さえもがいやに陰気に色濃く溜まっている。静かな病室で音を出すものといえば、側に立っている点滴が時おり出す電子音のみで、余計に侘しく感じられた。
「お父さん……、具合はどう?」
母親が声をかけると、父親はうっすらと目を開いて、ああ、とか、うう、とか返事ともうめき声ともいえない答えを返す。点滴の鎮静剤が効いているらしく、父親の意識ははっきりしないものの、痛みや発熱はないということが、表情から窺えた。
だからといって安心出来るということもなく、俺も母親も未だ戸惑いを抑えられないまま、お互いに話をしたり父親に声をかけたりして、無意識に沈黙を埋めあっていた。
「お父さん、まだ起きられないみたいだから、浩樹見ててくれる? お母さんは今のうちに入院に入り用な物を揃えてくるから」
しばらくそうやって不安で手持ちぶさたな気持ちをもて余していた母親は、そう言って慌ただしく出ていった。
残された俺は、呆然としたまま椅子に腰掛けて、ただぼんやりと顔色の悪い父親を眺めていた。何も考えられなかった。視界に映る光景が脳にまで到達していない感じがした。「信じられない」とも違う、「夢じゃないか」とも違う、何故自分がここにこうしているのか理解出来ない違和感と浮遊感だけが俺の頭をぐるぐる回っていて、四方を囲うのっぺりしたリノリウムのように、思索は一本線のまま、不自然なほど微塵も乱れなかった。
「浩樹……、そこにいるのか……」
ある種の瞑想状態にあった俺は、不意に聞こえたしわがれた声にハッとして、父親の枕元に寄った。
「……ここにいる」
近寄って見た父親の顔は、ずいぶん頬が痩けていた。顔も唇も灰色で、そこにはずっと忌々しく思っていたいつもの面影はまったくなく、そういえば父親の顔をまともに見たのはいつ以来だろうかと、そんなことをふと考えた。その父親は俺に何か言おうとしているらしく、しかしのどの奥で唾か痰が絡まり、ゴロゴロとくぐもった音が聞こえるばかりで、まったく要領を得ない。
「いいよ。無理しなくても」
それは父親のことを気遣ってというよりも、単純に見ていて痛ましくなって出た言葉だった。未だ現実感を得られない俺は、この期に及んでもそんな言葉しか出てこなかった。──なのに。
「……今まで、すまなかったな……」
その言葉を聞いた瞬間、俺の意識は力いっぱい現実へ引き倒された。ぼんやりと沈んでいた夢の浅瀬から無理矢理引き上げられたような気持ちだった。妙な話ではあるけれど、俺は今になってようやく「ああ、もう親父は長くは生きられないんだ」という現実を理解したのだった。その事実はにわかに俺の感情を掻き乱し、心が渦を巻いて、言葉に出来ないごちゃ混ぜの濁った思いが溢れてくる。
「──っ卑怯じゃねえか、そんなの!」
歯を喰いしばるようにしてようやく吐き出された一言は、真っ直ぐに父親へ、そして俺自身へと放たれた。
気付けば俺は立ち上がっていて、罵っているのか逃げているのかはっきりしない思いを抱えたまま、二の句を継げずに、ただイライラする気持ちをもて余していた。
「浩樹……」
うるさいだまれ! という言葉が喉まで出かけて、俺は何とか飲み込んだ。それでも、もう何も聞きたくないという俺の願いなどお構いなしに、父親はなおも鎮静剤で呂律の回らない口を一生懸命動かしながら、わずかに俺へと顔を傾けて言った。
「……お前は、お前のやりたいように、やればいい」
「……っ!」
俺は病室を飛び出した。もう堪えられなかった。父親の不自然に優しい声音が、最期がそう遠くないことを嫌になるくらい分かりやすく告げていて、自分の感情さえ判然としない混乱と戸惑いの中で、俺はむやみに泣き出しそうな気持ちを必死に抑えていた。
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