第25話





 入院病棟と一般病棟の間にある中庭は、患者やお見舞いに来る人たちの散歩道として綺麗に整備されていた。レンガで敷き詰められた道に蔓草を絡めた小さなアーチが施してあって、そこから一段低くなったところに噴水を囲むようにして色とりどりの花々が可憐に咲いている。

「すごい……。この病院にこんな綺麗な場所があったなんて知らなかった。中庭っていうより、庭園みたい」

 私が感嘆の息を漏らすと、浩樹君も私と同じように「だよな」と小さく答えて、私たちは少しの間景色を眺めていた。

「ちょっと周ってみようか」

 そう言って浩樹君はゆっくりと歩き出した。相変わらず車椅子は好きになれなかったけれど、浩樹君に押されながら中庭を巡るのはとても幸せな心地だった。

 薄い雲のかかった青空の下、たおやかな香りをのせた花たちは自らを赤く黄色く染め上げ、生命の息吹を吹き込まれた碧の葉が、夏の日差しを虹色に変える噴水の水を浴びると、落ちてゆく透明な滴を燈色のレンガが優しく受け止める。

 ──ここには、色がたくさんある。

 鮮やかに通り過ぎる景色を眺めながら、私は初めて知った。私の病室には優しい白と孤独な白しかないけれど、ほんの少し外へ出るだけで、世界はこんなにも色づいていたのだということを。

 日差しと影がまだらに交差するアーチの下を潜りながら、どこか寂しさを感じる清廉な空気を、私は胸いっぱいに吸い込んだ。暑さの中にもかすかな涼しさを秘めた風が梢をささめきながら通り過ぎてゆくと、浩樹君がふいに感慨深げに呟いた。

「そろそろ夏も終わりかな……」

「どうしたの? 急に」

 見上げた私に向き合った浩樹君の顔は、俯いているために影になっていて、そのせいか、何となく哀しい顔をしているように見えた。

「さっき天気予報で言ってたじゃん。今年の夏は短いって。それに今日は三十一日で、俺にとっては夏休み最後の日だし」

 ──夏休み。その響きは私にとって非常に身近な言葉だった。一ヶ月以上の長い休日を得ることのうれしさも、多すぎる量の宿題にうんざりする気持ちも、終業式後の教室のそわそわした感じも、みんな手に取るように思い出せる。けれど──。


 そこに、私はいなかった。


 ふと、あの女の子たちの関係をどうして嫌に思ったのか、分かった気がした。

 思えば私たちは、お互いの気持ちさえ明確な言葉にして共有したことはない。私は浩樹君のことが好きで、彼も、多分、私のことを好きでいてくれている。それでも私たちは“好き”という想いを直接口に出すことが出来ないでいた。今までの関係の、その先にある見えない何かを恐れて、無視し続けて、このままずっと二人一緒にいられると、そう思い込んでいた。

 ただ──。今の私の気持ちは、それとは少し違う気がする。学校の帰り道で、木元屋の前で、アンテナの見える秘密の場所で、何度も言葉にしようとして出来なかったあのときよりも、ずっと切実な、得体の知れない何かが襲ってくるような恐怖と焦燥が、私の胸を強く締め付けている。

 ──言ってみようか……「あなたが好きです」って──

 確かに今までの関係が壊れてしまうかもしれないという恐さはある。けれども、このまま友だちでも恋人でもないという関係をずっと続けていくのかと思うと、胸の奥がざわついて、じっとしていられなくなる。散らかった心の部屋では、あのリハビリ室の光景が、まるでその場面だけを美しく切り取ったフイルム映画のように何度も何度も流れていて、目的地の分からない私の気持ちをさらに駆り立ててゆく。

「藤咲」

 想いを声に出しかけていた私の気持ちへ、浩樹君が被せるように話しかけてきた。もう少しで膨らんだ心が“ばん!”と弾けそうになるところだったけれど、浩樹君は気付いた様子もなく続けた。

「明日から学校が始まって、テストとか部活で忙しくなるから、毎日は来られなくなると思う。

 出来るだけ来るようにはするけど、俺も、やらなきゃいけないことが山積みでさ」

 そうだ。浩樹君には浩樹君の生活がある。浩樹君は私以外にもたくさんの世界と関わっていて、彼との繋がりしか持たない自分とは違うということに、私は今さらのように気が付いた。

「ううん。仕方ないよ。毎日会えなくなるのは寂しいけど、浩樹君だって色々あるだろうし」

 正直納得なんてしていなかった。けれど納得する他なかった。膨らんだ心が、冷たくしぼんでゆくのが分かる。

「ごめんな。時間が空いたら必ず来るから」

 そう言って、浩樹君は申し訳なさそうに微笑った。

 夏の終わりを告げる晩夏の風が、少なくなった蝉の声を運ぶ。澄んだ空と薄い雲を見上げながら、何故か私は哀しい予感をひしひしと感じていた。



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