第26話タイム・ディスタンス─4




 少しバスに酔ったかもしれない。開いたままのメール作成画面から顔を上げて、俺は心地悪い浮遊感に気が付いた。

 早朝から高速に乗って揺られ続け、県営の文化総合体育館弓道場に着くまでの間、俺は携帯を見つめながら、藤咲へ送るメールの文面をずっと考えていた。

 新学期が始まってから、休み明けのテストや直後にある弓道の大会の準備に追われて、俺は一度も藤咲のもとを訪れていなかった。

 もちろんその間も藤咲がさびしく思わないように、俺は日々の出来事やフィクションを虚実入り混ぜて、楽しく充実した学校生活を送っていることを毎日彼女にメールしていた。

 しかし、実際は夏休みの宿題が全ては終わっておらず、新学期のテストは悲惨な結果に終わり、休み中に必ず矢を的に中てるという目標さえ達成出来ていない。

 ──こんなことしてる場合じゃない──

 何もかも中途半端で、むやみに焦って、何ひとつ結果を残せていない俺は、いったい何がしたいんだろう。

 そんなことばかり考えてしまって、藤咲にはいまだメールを送れていない。

「はーい、みんな集合」

 瑞希先輩のかけ声に、俺は意識を現実へ引き戻した。

 時刻は朝の八時半。バスが止められた駐車場を後にして、俺以外の部員はみんな体育館入口の脇に集まっていた。

「ほら、宗澤も早く」

「あ……、すみません」

「何か顔色悪いな。大丈夫かい?」

「大丈夫です。ちょっと、バスに酔っただけなので。飴でもなめてれば、そのうち忘れます」

 多少、捨て鉢な気持ちでそう答えると、瑞希先輩は「そうか」と困ったように微笑んで、みんなの前に立った。

「みんな、おはよう。いよいよ大会の日がやってきたね。一年生にとっては始めての、そして三年生にとっては最後の大会だ。各自、日々の鍛練を十分に発揮して──と言いたいところだが、私たちは発揮するほどの鍛練をしていなかったね」

 くだけた笑いが辺りを包み、先輩は続ける。

「きっと他の参加者からすれば、私たちみたいなのはいい加減で、適当で、遊んでいるようにしか思えないんだと思う。

 でもね、弓道が他のスポーツと違うのは、技術や体力や精神力とは別に、自分自身の心の有り様が問われるというところだと思うんだ」

 ひとりひとりの目を見つめるように話す瑞希先輩には、普段の飄々とした軽やかさはなく、弓を引いているときの真剣で凛とした眼差しをみんなへ向けていた。声は起き抜けに浴びる冷水のようで、俺はハッとした気持ちで先輩の言葉を聞きながら、沈んでいた意識の内側が、徐々に熱く、引き締まってゆくのを感じた。

「心の奥底に隠した苦悩や葛藤、切実な願いは、きっとみんなが抱いていると思う。誰にも言わず、ひっそりと。

 だけどそうした思いっていうのは、遊んでいようとだらけていようと、常に付きまとってくる。楽しいときでも、笑っているときでも、離れず心を燻すもの、それこそが、戦うべき相手なんだ」

 まるで戦いに赴く兵士たちを鼓舞する隊長のように、瑞希先輩の声は朝もやのボンヤリとした空気を貫き、みんなの心臓を縁取ってゆく。

「みんな、胸の中でイメージして欲しい。言葉にならない思いや、理解されないかなしみ、苦しみを生み出している弱い自分自身を。

 そして自分の心に向き合うんだ! 迷いを断つ意思を射に込めて。きっと矢は中たる。正射必中さ! だからみんな、勇気をもって挑もうじゃないか!」

 わっ、という歓声が上がり、みんなの笑顔がさわやかな朝の空気の中で弾ける。

 ──あぁ、やっぱり瑞希先輩だ──

 そんな感想が自然に漏れて、俺はなかば蕩然としながら先輩を目で追った。いつしか周りの景色や賑やかな歓声は遠ざかり、先輩の姿がくっきりとフォーカスされていって、まるでにじんだ淡い光に包まれているようだった。

 “自分の心に向き合って、迷いを断つ意思を射に込めれば、矢はきっと中たる”

 たったそれだけの言葉で、曇り空のようだった俺の心は少しずつ晴れやかに広がっていって、希望に向かう勇気をもらったような気がした。

 ──そうだ。先輩の言うとおり、必ずしも技術だけが大事なんじゃない。心を静めて集中すれば、俺だって絶対に上手く中てられるはずだ──

 久しく忘れていた活力が胸の奥から流れ込んできて、俺は全身を巡る脈動に、この試合中に必ず矢を的に中ててみせると決意した。



 ──そんな俺の願いを嘲笑うかのように、俺の放った矢は結局一本も的へ中たらなかった。

 俺はその日、藤咲が覚醒してからずっと毎日欠かさず送っていたメールを、初めて送らなかった。




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る