第27話




 何の成果も出せなかった大会から、一週間が過ぎた。

 その間俺は、日々の雑事──食事をしたり、学校へ行ったり、両親との必要最低限の会話など──をルーティン化した身体に任せ、極力何も考えないように努めて過ごした。

 授業を流し、部活をさぼり、そして藤咲の病室へは一度も訪れていない。

 今の俺には彼女の望む“浩樹君”を演じる余裕も、励ましの言葉をかけてあげられる心のゆとりもなく、ただただ逃げるように藤咲のことを避けていた。

 にもかかわらず藤咲からのメールはひっきりなしにきて、俺はそれらの文面を見るたびに、前よりももっと酷い苛立ちと焦燥に駆られるのだった。何十分も、時には何時間も頭を絞り、どうにか楽しげな雰囲気のメールを作成し、藤咲に返信したときには、いつもぐったりと疲弊していて、いつしか俺は、彼女からのメールにどうしようもないほどの憂鬱な気分を感じていた。


「きりーつ、気をつけ、礼」

 日直の号令を期に、教室の喧騒がいっそうやかましくなる。ホームルームをしているときからすでに騒がしいのはいつものことだけれど、今日はいつにもまして耳障りに思えた。

「よう。今日、帰りにどっか寄っていかね?」

 俺が帰り支度を整えていると、前の席の友人がこちらに振り返って言ってきた。

「悪い。今日は無理」

「何だよー。また家の手伝いか? たまには付き合えよ」

 家の手伝いというのは、俺が毎日藤咲の元へ行っていることを周りに悟られないための方便だ。

 俺の周りで藤咲のことを知っている者は誰もいない。両親にも、友人にも、瑞希先輩にさえ俺は黙っていた。からかわれたり、ひやかされたりすることが嫌というだけでなく、俺たちの間に他者の存在を介入させることに何となく抵抗があったから。

「今日は三者面談があるんだよ」

 俺がそう答えると、友人は「あぁ……」といかにも面倒くさそうに顔をしかめる。

「だりぃよな。もう、おれら抜きで親と先生だけで話し合ってくれよ、って感じ。だいたい将来のこととか言われても分かんねーし」

 友人の何気ない一言に、何故だか俺は救われたような気がして、前のめりに「だよな」と首肯していた。

「夢とか、やりたいこととか、正直ピンと来ないっていうか。うちは父親が工場やってるから特に“ああしろ、こうしろ”ってうるさいんだけど、知るかよ。うぜえよ。って言ってやりたい。マジで」

 いつもの俺に似合わず、つい早口で捲し立てるように言ってしまったけれど、友人は特に意識した様子もなく「おれんちも似たようなもん」とため息混じりに同調してくれた。

 ──何だ。未来や将来に迷っているのは俺だけじゃなかったんだ。

 “こんなことしてる場合じゃない”といつも焦っていた俺は、先へ進んでいる友人たちの話を聞くのが怖くて、夢や進路の話なんかは避けてばかりいたけれど、案外みんな俺と同じなのかもしれない。俺だけが置いていかれてる訳じゃ──

「あーあ……、早く受験終わらせて、ひとり暮らししてーなあ」

 そんな俺のあえかな見通しは、またも友人の何気ない一言によって崩されてしまうのだった。

「そう思わね?」と、首を仰け反らせたままこちらを向く友人に、俺は曖昧に頷いた。

「お前どこ受けるの?」

「え?」

「いや、だから大学どこ受けるの?」

「ああ……」

 俺は進路希望調査用紙に書いた適当な大学の名前を口にした。

「ふーん、結構遠いな」

「まあな。出来るだけ家から離れたくて、それだけを理由に選んだようなものだから」

「ははは。分かる。ホントそれ」

 友人は冗談半分に受けとめたみたいだけれど、俺にとっては冗談ではなく、すべて本気だった。

「……お前はどこの大学にしたんだ?」

「おれ? おれは東京の大学」

「やっぱり、東京へ行くのが目的で?」

「そりゃそうだろ! 他に理由なんかあるかい。大学受かったら絶対遊びまくってやるぜ!」

 ははははは、と二人で笑い合うも、友人の言葉を聞いた俺は、内心落ち着いた心持ちではいられなかった。

 そんな半端な気持ちで簡単に進路を決める友人が腹立たしかったし、また何も考えていないかのようなお気楽さが、藤咲のために自分はどうあるべきなのか常に悩んでいる俺にとって、癇に障って仕方がなかった。

 もちろん、半端な気持ちで進路を決めているのは自分も同じだし、友人の気楽さにムカつくのもただのやっかみだと分かっている。

 それでも「俺はお前らほど能天気じゃいられないんだよ」と言ってやりたくなる。藤咲に対しても、父親に対しても、自分自身に対してさえまともに筋を通せない苛立ちが、上っ面の笑顔の下から何かの弾みで飛び出してきそうな、そんな気さえする。

「じゃあまた今度遊びに行こうぜ」

「ああ。じゃあな」

 友人と別れをつげて、俺はため息をひとつ吐いた。

 放課後の教室には、部活や委員会のこと、寄り道や遊びの話をするクラスメイトたちのざわめきで満たされていて、受信状態の悪いラジオのようなまとまりのない雑音に、俺は辟易した気持ちで教室を出た。

「さて……、どうしたもんか」

 エアコンの効いた室内から一歩外へ出ただけで、夏の暑さが一気に押し寄せてくる。早くも汗をかき始めた額を拭い、傾きつつある空にため息を向けると、マナーモードにしていた携帯電話がポケットの中で震えた。

“下足場で待ってる”

 必要なことだけを書いた簡素なメールに、俺は苦笑いしながら、しかしどこかホッとした気持ちで下足場へ向かうと、彼女は柱に寄りかかり、なかばこちらに背を向けた格好で俺を待っていた。

「瑞希先輩」

 俺が声をかけると、先輩はまるで恋人と待ち合わせていたかのような微笑みで、俺を振り返った。

「来ると思っていたよ」

「靴履かないとどのみち帰れませんからね。……っていうか、懐かしいですね、それ」

 俺たちが初めて会った日のセリフだと指摘すると、瑞希先輩は「うれしいね。覚えていてくれたんだ」とはにかむ。

「あのときの先輩はかなり印象的でしたから」

「じゃあ今はどう?」

「結構ちゃらんぽらんで適当な性格だったんだなーって」

「ひどい!」

 少し前のめりになった拍子に、瑞希先輩の頭の上で小さなポニーテールがぴょこんと跳ねる。困り顔と怒り顔を混ぜた子供みたいな先輩が目の前に迫ると、俺は思わず気が抜けたように笑ってしまった。

 二人きりになった相手に気を使わなくてすむということがこんなにも心安らぐなんて、久しく忘れていたような気がする。藤咲のことや自分自身のことで思い詰めていた心が、少しだけ軽くなって──

 ──え? 今俺は、何て思った?


 ──二人きりになった相手に気を使わなくてすむということがこんなにも心安らぐなんて、久しく忘れていたような気がする──


 俺は自分の思いに気付いて愕然とした。

 ──そうか。……俺は藤咲といるとき、いつも張り詰めた気持ちでいたんだ。

 今までそんなことは考えたこともなかった。出会ったばかりのころはともかく、俺たちはいつだってお互いのことを理解していたし、正面から心を開いてお互いを受け入れていた。

 それは藤咲が事故に遭う前も、再び覚醒したあとも、変わらず俺たちをつなぐ絆のように、目には見えなくても確かなぬくもりとして、理屈ではなく心で感じ合っていたはずのものだった。

 けれども今は、二人の間にあった大切なあの空気、何も言わなくてもただそばにいるだけで心安らいだあの瞬間さえ、今の俺にはもう感じとることも、思い出すことも出来なくなってしまっていた。

「もう! 私は宗澤のことを心配してたんだからな!」

 思考はわずかな間だったけれど、瑞希先輩が何を言っているのかとっさに分からなくて、俺は「心配?」とオウム返しに訊ねてしまった。

「そうさ。あの大会の日以来、部活に顔を出さないって聞いたから、こうして引退したあともわざわざ様子を見に来たっていうのに」

 心配して損した、と先輩は口唇をとがらせて、そっぽを向いてしまう。もちろん本気で怒っている訳ではなく、むしろそのわざとらしい仕草がとても愛遠いとおしく思えて、藤咲のことで動揺していた俺の鼓動が、少しずつ穏やかになってゆく。

「ありがとうございます。先輩。でもすみません。今日も部活には行けそうにないです」

「……まだ、気にしてるの?」

 先輩は途端に表情を曇らせて、真剣な声音で聞いてくる。

 大会に出た部員たちの中で、俺だけが的に一度も中てられなかったことはみんなが知っている。俺の落ち込み様を見て、誰もが励ましたり慰めたりしてくれたけれど、俺はまともに返事をすることもなく、打ち上げにも、三年生のお別れ会にも、新しい体制での懇親会にも出席しないまま、今日まで誰とも話さずに過ごしてきた。

 あまりにも情けなくて、身勝手で、きっとみんな俺に呆れていることだろう。

 にもかかわらず、こんな俺を心配して会いにまで来てくれた瑞希先輩の気持ちが、今は素直に嬉しかった。

 だから俺は、これ以上先輩を心配させないように、少しだけ手に入れた明るさを顔に表して「いえ」と首を横に降った。

「今日は、進路についての三者面談があるんです」



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