第36話




 朝起きて、顔を洗い、髪をとかして、歯をみがく。たったそれだけの行動のひとつひとつに緊張感が満ちていて、私は度々深呼吸をしなくてはならなかった。

 理由ははっきりしている。昨日、惣市さんとリハビリに行くと約束したからだ。

「ああ……、行きたくない……」

 これからあの空間へ──、あの女の子と男の子が恋人同士のように仲良く触れ合っている空間へ行かなければならないと思うと、胃の辺りが重苦しくなってくる。朝食はほとんど喉を通らず、嫌なことを後に引き延ばしたい一心で時計ばかり眺めてしまうけれど、そんなことで時の流れが遅くなる訳もない。

「燈子ちゃん、そろそろ時間だけど、準備出来た?」

 約束の時間の五分ほど前に、惣市さんが病室へ入って来た。

「胃が痛いです……」

「あらあら。お薬飲む?」

「いえ、大丈夫です……」

 本当は大丈夫じゃない。だけど逃げる訳にはいかない。浩樹君の隣へ追い付くための、これが最初の一歩なのだから。

「大丈夫です。行きましょう」

 もう一度自分に言い聞かせるように声を張ると、私は気合いを入れて──というのも変な言い方だけれど──車椅子に座った。

 惣市さんに押されて廊下を進むわずかな間にも、緊張感は膨らんでゆくばかりで、しかも彼女は車椅子を押す速度を緩めてくれない。

〈いや、緩めるほどの距離じゃないのは分かってるけど〉

 ナースステーションを越えて談話室を過ぎ、見慣れない廊下を通って、いよいよ扉が迫ってくると私の緊張はピークに達した。

〈あぁ……、出来るなら今からでも引き返したい。受けたことはないけど、受験ってこんな感じなのかな──〉

 そう考えたとき、そうか、自分は受験すら経験したことがないんだっていう事実にあらためて気付かされた。

〈受験だけじゃない。電車通学も、部活も、アルバイトも、恋人とのデートも、流行りの音楽も、ファッションも、今の私は、何ひとつ知らない〉

 中学生でも高校生でもなく、健常者でもなければ死ぬような重病人でもない。眠っているのか起きているのかも定まらず、私を知っている人はいても、今の私を受け入れてくれる人はいない。


 ──今の私は、何なんだろう──


 まるで置場所をもて余したぬいぐるみみたいだ、と思う。

 世界の座標からイレギュラーにはみ出て、宙ぶらりんのままどこにも配置されず、中途半端にさまよっている不定点。それが私だ。

「燈子ちゃん? どうしたの?」

 惣市さんの声で、私は我に帰った。

 リハビリ室の引戸は惣市さんがすでに開けてくれていて、あとは私が進むだけなのに、私はずっと固まったままだったらしい。

「すみません。ちょっとぼんやりしていたみたいで」

 車椅子を動かして中に入ると、リハビリ室は入口から段差のない造りになっていて、色んな補助具や介助品に支えられながら、十人くらいの人たちが介護士の先生に付き添われて軽い運動やストレッチをしていた。

〈いた……〉

 あの女の子はすぐに見付けることが出来た。平行に並んだ腰の高さくらいの二つの横棒を補助にして、彼女は一歩ずつゆっくりと歩く練習をしているようだった。

「高田先生」

 女の子の介助をしている介護士の先生に惣市さんが話しかけて、私はハッとして身を縮めた。よりによってあの女の子と同じ先生だなんてハードルが高すぎる。

「この子が前に言っていた藤咲燈子ちゃんです」

 惣市さんが先生に私を紹介すると、先生は「こんにちは」と私に柔和な笑顔を向けてきた。

「君のリハビリを担当させてもらうことになった、高田といいます」

 よろしく、と高田先生は私の目線に合わせて屈む。

「あ……、藤咲、燈子です。よろしくお願い──」

「あれ? 先生、その子は?」

 活発そうな、よく通る声が私の言葉を遮って、私は心臓をキュッと鷲掴みされたような気持ちで、声をした方を向いた。



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