第35話




「珍しいですね。惣市さんからお風呂に行こうだなんて」

 半分だけお湯の張ったバスタブに体操座りで浸かりながら、私は不機嫌な声で言った。惣市さんは「そうかもね」と微笑いながら背中を流してくれている。

 いきさつがどうであれ、やっぱりお風呂に入るのは気持ちがいい。そんなことでいささかでも機嫌が直ったように思われるのは嫌だったけれど、しかめっ面ばかりでは話も出来ない。「不機嫌な声」というのは、そのあたりの微妙なバランスを取った声だ。

「でも、これも日常生活に戻るための訓練だと思えばおかしい話ではないでしょう? 燈子ちゃん、全然リハビリしようとしないんだもの」

 惣市さんが困ったように笑った。確かにお風呂に入るのは思った以上に体力を使う。今まで毎日入れさせてもらえるように頼んでも、二、三日おきにしか入れてもらえなかったのは、体力の落ちた病人に余計な体力を使わせないようにという病院側の意図だったのだけれど、おかげで浩樹君と会うときの私はいつも──。いや、浩樹君のことはもう考えたくない。今は惣市さんが何故私をお風呂に誘ったのかという話だ。

「結局、私がリハビリに行かないからというのが、ここへ連れてきた理由ですか」

「ええ、そうよ」

 私の身体をスポンジで洗いながら、惣市さんはあっさりと認めた。

「ただし、燈子ちゃんが思っている理由と、私が思っている理由は少し違うと思うけど」

「どういうことですか」

 そこで惣市さんは動きを止めて、真剣な口調で訊ねてきた。

「燈子ちゃん。どうしてリハビリを受けようとしないの」

「それは……」

 いきなり核心を突いた質問をされて、私は咄嗟に言い返すことが出来なかった。磨りガラス越しのぼんやりとした陽光の中、バスタブのお湯がゆらめく音と、蛇口から落ちた水の雫がタイルにはじける音だけが、せまい浴室に木霊する。

「……そんなこと、聞いてどうするんですか。身体が元通りになったところで、どうせ三時間しか起きていられないんだし。それに──」

「……それに?」

「浩樹君は、もう、私のことなんて……」

 私はそこで言葉を切って、顔にお湯をばしゃっとかけた。泣きたくなって、けれど泣く訳にもいかないとき、顔を洗ってごまかすことが私の幼い頃からの癖だった。

 けれど、そうやっていくら気持ちを騙そうとしても、鼻をすすった音で、いやでも自分が泣いていることに気付かされてしまう。“あぁ、私はまだ浩樹君のことが好きなんだな”っていう想いが、後から後からあふれてくるみたいだった。

 そんな私をいたわるように、惣市さんは再び私の背中を優しく流し始める。私にとって彼女の優しさは、何よりも心を穿つ拷問のようだった。何故なら私はこれからひとりで生きていかなくちゃいけない。そのためにはもっと心を強く、少しのことで動かないくらいに固くする必要がある。

 ──それなのに、そんな風に優しくしないでよ──

 今すぐ振り返って彼女にすがりたいという衝動を必死で耐えながら、私は顔を洗ってばかりいた。

「燈子ちゃん、私ね──」

 だから、まるで世間話をするみたいな気軽さで惣市さんが話しかけてきたときも、私は半分うわのそらで、何を言われても聞き流すつもりだった。

「将来を約束した人がいたの」

 そんな、思ってもみないことを言われるまでは。

 戸惑う私にかまわず、惣市さんは続ける。

「彼に出逢ったのは、ちょうど今の燈子ちゃんくらいのころだったかな。穏やかで、優しくて、ちょっと子供っぽいようなはにかんだ笑顔がとても素敵な人だった。

 初めて会ったときからお互いにすごく惹かれあって、私たちは幸福に夢中だった。将来は絶対に結婚しようと誓い合って、高校、大学まで一緒に進んだの。でも──」

 惣市さんはそこで言い澱んだ。

「……別れたんですか」

「……ええ」

 私は混乱した。どうしてそんな話を今するのかということ以上に、大好きな人との別れ話にもかかわらず、惣市さんの声にはまったく悲壮感のようなものが感じられなかったからだ。

「私は彼のことが大好きだった。嬉しいことや楽しいことは一緒になって喜んでくれたし、つらいときや苦しいときは必ず私のそばにいて慰めてくれた。悩んだり、迷ったり、どうすればいいのか分からなくなったときも、彼は必ず道を示してくれた。彼と一緒なら、私は何も怖くなかった。

 ──だけどあるとき思ったの。私は、今のままで本当にいいのかって」

「……何がいけないんですか。大好きな人と一緒にいられて、愛されて、結婚する約束までしているのに。これ以上ないくらい幸せじゃないですか」

 ますます訳が分からない。惣市さんが何を伝えたいにせよ、自分の現状と照らし合わせてみても、嫉妬と怒りしか沸いてこない。

「そうね。幸せだった。幸せに溺れすぎて、自分がどれだけ彼に甘え、依存し、すがって生きているか気付きもせず、いつしか彼だけが私の世界になっていた」

「別にそれでいいじゃないですか。大好きな人がそばにいてくれるなら、それだけで」

「そういう生き方もあるのかもしれない。でもね、燈子ちゃん。私は彼と一緒に歩きたかったの。ただ彼の後ろをついてゆくだけじゃなくて、私からも彼に何かを与えたかった。

 なのに私は、彼から与えられてばかりで、自分からは何もしようとしなかった。……優しい人だったから、それでも構わないと言ってくれたけれど、私はもっと自分自身で色んなことを経験して、感じて、強くならなくちゃって、思ったの」

「……それが、別れた理由ですか」

「ええ。私は弱い人間だから、彼のそばにいるとどうしても決心が鈍ってしまって……。

 だから、別れようって決めたの。いつか彼に追いつくことが出来る日まで」

「そんなの──!」

 信じられない。自分の生き方なんて、大好きな人と一緒にいられる幸せを捨ててまで問う価値があるのだろうか。身体がこんな風になる前だって、どう生きるかなんて私は考えたこともないし、私にとっては浩樹君がすべてだ。それの何がいけないというの? 私には……、私には限られた時間しかないっていうのに!

「燈子ちゃん──」

「いや! さわらないで! 惣市さんの言ってることはただのわがままです! 私の気持ちなんて分かりっこないくせに偉そうなこと言わないで下さい!」

 私は惣市さんの手を払って、バスタブの反対側へ移動した。たったそれだけのことで何かが変えられる訳もないのに。

「逃げないで。燈子ちゃん」

 狭い風呂場で逃げるも何もない。バスタブに張ったお湯が私の動いたあとを追ってちゃぷちゃぷと間抜けな音を立て、すぐに私は惣市さんに正面からとらわれた。

「あなたの言うとおり、これは私のわがままなのかもしれない。あなたの気持ちも知らないで偉そうなことを言っているだけなのかもしれない。

 それでも、前に進もうとする意思だけは捨てないで欲しいの。

 何もかもを諦めて閉じ籠もることは、一番楽で傷付かない選択だけど、そこには希望がない。どんなに痛くても、苦しくても、理不尽でも、人は前を向いて歩くしかないの。それが“生きる”っていうことだから」

 ──うるさい! うるさい!! うるさい!!!

 惣市さんの真摯な言葉に、私は視線をそらすしかなかった。彼女の言っていることはいちいち正しくて、けれども今の私には生き方なんて選べる余裕がない。一日に三時間しか起きていられないのに、出来ることなんて限られている。自分ではどうしようもないことにとらわれて、浩樹君に会いたいっていう願いさえ叶えられない。

 ──私には、出来ることなんて何もない──

 そこまで考えたとき、不意に最後に会ったときの浩樹君の言葉が思い浮かんできた。

 ──でも俺は、俺の人生を生きたいんだ! それなのに俺はずっと色んなことに縛り付けられて、まだスタートラインにすら立てていない──

 浩樹君を初めて意識したときの、五〇メートル走を全力で走ったあとと同じ顔で、彼は自分の無力さに行き場のない怒りと悔しさをにじませていた。

 ──そっか。浩樹君はいつもこんな気持ちでいたんだ──

 私は初めて浩樹君の内面を少しだけ理解出来たような気がした。そして私はそんな彼の苦悩を知ろうともせず、考えもせず、まるで当然の権利であるかのようにただ自分が愛されることだけを考えてきた。

 私は──。

「……燈子ちゃん。リハビリに行こう? あなたの大事な彼に、少しでも追い付くために」

「……ひとつだけ、教えて下さい」

「なあに?」

 恐る恐る視線を上げると、惣市さんが慈しむようにこちらを見つめていた。

「別れたあと、惣市さんと彼は、どうなったんですか」

 私の不躾な問いかけに、惣市さんは一瞬顔を緊張させたけれど、すぐに表情をやわらげて「そうね……」と感慨深げに言った。

「彼とは別れて以来一度も会ってないから、今の彼が何を考え、どんな風に生きているのか、私には分からない。でもね、私の思い上がりかもしれないけれど、きっと彼は私を待っていてくれるって信じてるの」

 惣市さんは穏やかに、けれど芯の通った声で言った。

「……浩樹君も、待っていてくれるかな……」

 思わずもれた独り言に、惣市さんはあたたかい笑顔を向けて、私を安心させるように言った。

「ええ。きっと待っていてくれるわ」

 ──この人の微笑は、本当にずるい。その優しさに、私の心は大きく揺さぶられる。すがりたくなる。

「だから燈子ちゃんも、頑張ってみよう?」

 私は悔しいような、負けたような気持ちになりながらも、涙をこらえて小さく頷いた。

 目を覚ましてから初めて、私は前に進むための心を決めた。



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