第56話




 日が暮れかけた時間になって、俺はようやく先生から解放された。山々の稜線に沈みかけた夕日の残照が、かろうじて辺りに淡い灯りを投げかけていて、けれど明かりの灯っていない場所には夕闇の影が早くも覆い被さろうとしている。

 生徒たちが校門へ向かう流れの中にまざりながら、俺はふと弓道場へ首を巡らせてみた。特に理由があった訳ではない。本当に、ただ何となく視線を向けてみただけだったけれど、まだ明かりが点いたままの射場に、誰かが立っているのが遠目に見えた。

 すでに弓道部の人たちは帰り支度を始めていて、ぽつぽつと弓道場から出ていくそれらの部員たちをよそに、袴姿の彼女は弓を引き、いつもの凛とした所作で射を行う。

「瑞希先輩……」

 久しぶりに見た先輩の射には迷いを感じさせない美しさが変わらずあって、俺は校門までの道のりをひとり逆にたどり、引き寄せられるように弓道場まで来ていた。

 瑞希先輩の邪魔にならないように、射場の入口に立って後ろから彼女の射を眺めると、瑞希先輩はまさに矢を放とうとしているところだった。

 引き絞られたつるに緊張が乗り、集中と雑念を払う『会』と呼ばれる一瞬の間が射場に満ちる。その直後、放たれた矢が浅い放物線を描きながら的に中ると、竹を割ったような乾いた音が射場に響いて、心が引き締まる気持ちのよさが、身体全体へと伝わってゆく。

 緩やかな動きとともに小さく深呼吸し、残心を終えたところで振り返った瑞希先輩は、俺の姿を見て分かりやすく驚いた。

「宗澤!? いたのか!?」

「あ、はい……。すみません。驚かせちゃって……」

〈何やってるんだ俺は。自分で答えを見つけるまで弓道場には行かないって決めてたくせに、今になってふらふらと……〉

 これ以上、瑞希先輩に迷惑をかける前に帰ろうとしかけたとき、先輩は少し焦ったように「着替えるからそこで待ってて!」と俺に声をかけて、更衣室へ入って行った。

 そう言われると帰る訳にもいかず、俺は仕方なく道場に上がり、落ち着かない気持ちのまま射場に腰掛けた。足下の砂利をいたずらに蹴っていると、薄墨色に染まる辺りの中で、道場だけがポツンと燈色の明かりを照らしている光景は、安心感よりもむしろ侘しさを感じてしまう。そんな心許こころもとない気持ちをもてあそんでいるうちに、制服に着替えた瑞希先輩が軽く俺に声をかけて、俺の隣に座った。

「先輩、まだ弓を引いてたんですね」

 瑞希先輩は夏の大会ですでに引退している。それでも時々、弓道場にやって来ては後輩の指導をしていると聞いてはいたけれど、射をおこなっているのは少し意外だった。先輩の性格なら「引退した自分が後輩の練習場を奪ってはいけない」とか言って遠慮しそうなものだと思っていたのに。

「みんなに教えているうちに、自分もまた弓を引きたくなってね。部活が終わったあとにちょっと射場を借りていたんだ。宗澤も弓を引きたくて来たんじゃないの?」

「あ、いえ……。帰ろうとしたら瑞希先輩の姿が見えたので、何となく」

「そっか……。残念。ようやくまた部活に来てくれると思ってたのに」

「……すみません。俺はまだ、答えを出せてなくて」

 少し困ったように微笑う先輩を見て、俺の胸の内に申し訳なさと無力感がつのってゆく。

「相変わらず生真面目だね。まぁ、そんな宗澤だからこそ、私は君に次の部長になってもらいたかったんだけど」

「俺にはそんな器も資格もないですよ。自分自身のことでさえ何ひとつ定めることも出来ないのに。……それに──」

「──藤咲さんのこと?」

 言い淀んだ俺の言葉を継いで問いかけてくる先輩に、俺は目線を合わせられないまま、ただ黙って頷く。

「……俺には、藤咲のために出来ることが何もないんです」

「あえてとして言わせてもらうと、ただ好きな人がそばにいてくれさえすれば、それだけで十分幸せだと思えるけどね」

「それじゃ不十分なんです。いえ、先輩の言ったことを否定するつもりはありませんが、でも一緒にいる間だけ幸せになれても、藤咲自身は救われないじゃないですか。

 彼女自身が──俺と一緒にいる間だけでなく──前向きに、希望を持って生きられるようにならなければ、結局藤咲はいつまでたっても前に進めない。未来を生きることを諦めないように、自分の意思で歩みを持てるように、俺は藤咲に光を与えられる存在にならないといけない。それこそが、彼女を傷付けてしまったことへの罪滅ぼしだから。

 それなのに俺はいまだに自分自身のことさえ満足に決められず、藤咲に何て声をかけたらいいのか、それすら分からないんです」

「それが、藤咲さんのところへお見舞いに行かない理由?」

 今度の先輩の言葉には、問いただすような責め立てるニュアンスがあって、俺はそこから何も言えなくなってしまう。すでにほとんどの生徒は帰ったらしく、夕闇が影を夜に塗り替えようとする時間になっていた。今すぐにでも校門を閉められてしまいそうなことは分かっていながら、しかし俺たちは二人とも立ち上がろうとはせず、口を閉ざしたままの静かな瞬間に、俺が乗るはずだったいつもの電車の通り過ぎる音が、風に乗ってさびしく届く。

 やがて短く長い沈黙を破り、瑞希先輩は正面を向いたまま、独り言のように呟いた。

「……人が誰かにしてあげられることって、案外少ないのかもしれない」

 何気なく言った先輩の一言が妙に俺の心に引っ掛かって、けれども俺には何も返せる言葉がなく、黙ったまま先輩の次の言葉を待った。

「宗澤が藤咲さんのことを話してくれたあとで、私がもし君の立場だったらって、時々考えてみたんだ。……一日に三時間しか起きていられない彼女のために何がしてあげられるだろう。上っ面な励ましじゃなく、それこそ宗澤が言ったような、希望を持って生きられるようになるために、自分に何が出来るだろうって。

 だけど答えは見付からなかった。今の宗澤と同じさ。『自分は藤咲さんに対して何も出来ない』っていう虚しい結論しか出なかったよ。

 それでも、たとえ何も出来なくても、宗澤には藤咲さんのそばにいてあげてほしい。それだけで彼女はきっと──」

「そうですね。藤咲はきっと喜ぶでしょうね。そうしてという事実を悟り、あとはゆるやかに諦めを受け入れ、これからの人生を絶望とともに生きてゆくんでしょうね」

「宗澤……」

「俺はね、先輩。何も藤咲をひどく傷付けてしまって合わせる顔がないからという理由だけで、彼女に会わないと言ってる訳じゃないんですよ。さっきも言いましたけど、俺は藤咲の希望にならないといけない、俺が藤咲へ明るい道先を示してあげないといけないんです。

 そのためには何よりも俺自身が、希望を持って、誇りを持って、信じる心を持って、人生を生きてゆく必要があるんです。

 ──だけど俺は……、俺には、一本筋の通った強い目標や夢や将来が、どうしても分からない。俺は先輩みたいに真っ直ぐには生きられない。教えて下さいよ、先輩。俺は何を、どの道を、どんな未来を選べばいいんですか?」

 瑞希先輩に責められたような気になって、自然と角の立った言い方になってしまった。そのことに気が付く程度には冷静だったけれど、今の俺には先輩に気を使うほどの余裕がなかった。

 先輩はグッとのどを引いて、眉間にシワを寄せながら言葉を探している様子だった。先輩のそんな姿を見たのは初めてで、うつむき加減に視線を落とした表情を眺めていると、胸が痛くなってくる。

「……私のおじさんが以前、こんなことを言ってたんだ。『人生には、何をやりたいとかやりたくないとか以前に、有無を言わさず選ばなきゃいけないときってのがあるんだよ。だけど最悪なのは“何も選ばない”っていう選択をしても、自分の人生においてはそれがってことなんだ。何もしなくても他人には迷惑がかからないからな』ってね。

 ……ねえ、宗澤。このまま藤咲さんにずっと会わないのなら、それは何もしないということと変わらないように私は思うんだ。宗澤の気持ちはすごく──、すごく藤咲さんへの誠意に満ちていると思うけれど、義務とか責任とかを考えるよりも、時には自分の想いのままに動いてもいいんじゃないかな。だって、時間は待ってくれないんだよ? 二人にとって『時間』は何よりも大切なものなんでしょ?」

「──分かってるよ! そんなこと!!」

 ずっと抑えていた感情が爆発した。本当は薄々分かっていたのだ。瑞希先輩の指摘は、自分がずっと考えないようにしながら目をそらしてきたことだということを。どうすればいいのか迷ってばかりで、結局俺は藤咲のために何もしてあげられていないということを。

「お前ら何してる。とっくに閉門時間は過ぎてるぞ。さっさと帰れ」

 タイミングよく見回りの先生が来てくれたことで、俺は瑞希先輩がどんな表情をしているか見ることもなく、立ち上がって校門へ一直線に歩いていった。

 先輩は今どんな思いをしているのだろう。いきなり怒鳴り声を上げたせいで怖がらせてしまっただろうか。かなしませてしまっただろうか。

 俺の後からついてくる先輩の寂しげな足音を聞きながらそんなことを考えていたけれど、振り返って確認する勇気もなく、俺は居たたまれなさを抱えたまま、夕闇に紛れて薄くなった自分の影ばかりを見つめて歩いた。

 そうして校門を出て瑞希先輩との分かれ道に差し掛かったとき、不意に後ろからかけられた言葉に、俺は思わず足を止めた。

「宗澤……。さっき私が言ったこと、忘れないでね」

 その一言だけを告げて、瑞希先輩の足音は遠ざかってゆく。

 結局俺は振り返ることも反論することも出来ず、何もかも中途半端な自分自身と、何ひとつ変えられない現状に行き場のない苛立ちを募らせながら、虚ろになった身体だけを引きずらせるように、あてもなく歩いていった。



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