第55話タイム・ディスタンス──7




 職員室の雰囲気というのは、どうにも慣れない。生徒は逆らえない存在である教師たちがバタバタと忙しそうにしている上に、人の出入りが意外と多く、落ち着かないことこの上ない。後ろめたいときは特に。

「おまけに煙草くさい……」

 パーティションで仕切られた喫煙所は応接間も兼ねていて、先生が生徒と話し合いをする場所として利用されることもある。今がまさにそうだ。

「待たせて悪いな」

 大学のパンフレットやら募集企業の資料やらを抱えてやって来た先生は、俺の向かい側、くたびれた黒い革張りのソファーにどかっと座ると、それで? と話を振ってきた。

「少しは自分の将来のことを考えてみたか?」

 先生の真っ当な問いかけに、俺は黙ったまま何も答えられない。進路希望調査のプリントはすでに何日も前に締め切られ、第一から第三までの書き込み欄に結局俺は何も書かず、白紙のまま提出したからだ。

「やりたいことが分からないなら大学に進学して、そこからゆっくり考えてみるっていう手もあるぞ。というか、大学に進学するやつのほとんどはそんな感じじゃないか?」

「……そんな適当な理由なら行かない方がマシです」

「だけど以前に提出した進路調査には、進学希望って書いてたよな?」

 俺は以前に父親への反発心という理由だけで進学希望と書いたことを思い出した。あのときは父親に人生をコントロールされることからとにかく逃れたくて、適当に遠い大学の名前を書いたけれど、今は状況が違う。父親の病気のこと、その父親が密かに貯めていた学費のこと、そして藤咲に対して俺はどう生きるべきなのかということ。そのあたりの事情が込み入り過ぎていて、俺は先生に何と説明すればいいのか分からず、ただ黙ったまま意味もなく机の木目を眺めていた。

 何も喋らない俺を気遣ってか、先生はいくぶん砕けた調子でソファーに深く座り直した。

「何もそんなに深刻に捉える必要はないと思うぞ? かくいう先生も、何となくみんなが進学するから進学して、そのとき付き合ってた彼女が教育学部に行ったからそこを選んで、気が付いたら教師になってたっていう。……まあ、何だ。そんなに思い詰めなくても、人生何とかなるって話さ」

 きっと先生は俺の将来を真面目に/現実的に考えてくれているのだろう。しかし俺も俺なりに真剣に悩んでいるのだ。

「先生がおっしゃりたいことは分かります。俺のことをおもんばかってくれていることも。……それでも俺は、いい加減な気持ちのまま、安易に将来を選びたくはないんです」

「潔癖だなぁ、お前は」

 俺は真面目に言っているのに、先生はどこか大人の余裕を見せつけながら苦笑いする。そんな先生の軽薄な態度は、藤咲のことや父親との確執、家の経済的な不安や、自分自身のことについての苦悩を軽く流されたようで、俺は無性に腹が立ってきた。

「まあ、お前の気持ちも分からなくはないけど、進学しないのなら何処かしら就職しなきゃならんが、親父さんの後を継ぐのか? それとも他に何かやりたい仕事とか、就きたい企業とかあるか?」

 俺が何も答えられずにいると、先生は募集企業のパンフレットをこちらによこし、目を通すよう促してくる。俺はそれらを手に取り、書かれている文章を読むふりをしながら先生の説明を適当に聞き流していたけれど、そうした俺の態度は先生にも筒抜けだったらしく、何社めかの話をしているときに、先生は不意に「聞いてるか?」と俺を上目でジトっと見つめてきた。

「……聞いてます」

 そんなあからさまな俺のウソに、先生はため息をつきながら「ちゃんと聞け」と、厳しい声で俺を叱る。しかもそのあと何十分も説教が続き、自分の経験談を交えながら進路や就職についての話を延々と聞かされるはめになって、俺はうんざりした気持ちをどうにか隠し、拷問のような時間をひたすら耐えた。



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