第54話




 日々は穏やかに、残酷に過ぎてゆく。私の時間は三時間から徐々に減ってゆき、残された貴重な時間は一日に二時間ほどで、しかし今の私には、何をしていいのか、何をするべきなのかさえ分からないまま、あっという間に一日が終わってしまうのだった。


 今日の私はロビーに来ていた。特に理由があった訳ではないけれど、ひとりで病室にいても退屈だし、それならまだ多くの人が行き来する姿を眺めていた方が気がまぎれるかと思ってのことだ。

 私は子供のころから人の流れを見るのが好きだった。道行く大勢の人たちがどんなことを考え、どんな人と会い、どんな人生を送っているのか、飽きもせず想像しては色んなドラマを頭の中で創って楽しんでいた。

 とはいってもここは病院で、来る人といえば、怪我人か病人か見舞いの人くらいしかおらず、結局私は待合の長椅子に腰掛けながら、誰が見るともなく流されているローカルの退屈なバラエティ番組を、意味もなくぼんやりと眺めていた。

「燈子ちゃん!」

 聞き覚えのある声にハッとして首を巡らせると、ロビーの入口からブレザーの制服を着た女の子が、駆け足で私の元までやって来た。

「美咲、ちゃん……」

 久しぶりに会った美咲ちゃんは、もうギプスも松葉杖もしていなかった。薄々は分かっていたことだけれど、私は今になって初めて彼女が退院していたことを知って、軽い罪悪感を覚えた。

「……久しぶりだね。もう足はよく──」

「燈子ちゃん! 大丈夫なの!? 中庭で急に倒れてから、全然音沙汰ないから、私心配で……。惣市さんは大丈夫って言ってたけど、何回病室へ行っても燈子ちゃんずっと眠ってるしメールも全然返ってこないし……」

 わずかに肩を上下させながら、美咲ちゃんは私の言葉を遮って早口でまくし立てる。しかしそれは憤りからではなく、私のことを本気で心配してくれていることが、彼女の深刻な顔付きから分かった。

 何度つらく当たってしまっても変わらずやさしく接してくれる惣市さんといい、退院したあとも私のことを本気で心配して忘れないでいてくれる美咲ちゃんといい、二人ともなんてあったかい人たちなんだろう。いっそ私のことなんて忘れてくれればいいのに。そうしてこのまま静かにいなくなってしまえば、誰にも迷惑をかけることも、諦め想いを抱えることもなく、何もかもを空っぽにして眠りにつくことが出来るのに。

「燈子ちゃん……?」

 怪訝な表情で私を伺う美咲ちゃんに、私は微笑み返して言った。

「ごめんね。あのあと先生に言われたんだけど、私の意識を覚醒させる薬の作用が、だんだん効かなくなってきてるらしいの。……今は起きていられる時間も二時間くらいしかないし、薬が効き始めるタイミングも遅くなってきちゃってるから……」

「そんな……。そんなのって……」

 美咲ちゃんは眉間にシワを寄せて、みるみるうちにその大きな瞳を濡らしてゆく。浩樹君と疎遠になってから携帯を見ることもほとんどなくなって、美咲ちゃんからの連絡に気付かないばかりか、彼女に一言の電話もメールも送らなかった私の不誠実さを責めもせず、美咲ちゃんは私のためにかなしんでくれている。

 私は彼女のやさしさに心を打たれつつも、しかし私が感じていたのは、制服姿の彼女からあふれ出る生命力の強さだった。

 日焼けし、わずかに汗ばんだ肌。着崩れを起こしても失われない清らかさ。涙を流しながらも、なお強く印象的な瞳。

 きっと美咲ちゃんは手嶋君や友人たちと青春を謳歌しているのだろう。以前の私なら、彼女に対する嫉妬とどうにもならない自分の未来を比べて、どろどろに潰れて絶望していたに違いない。けれど今はそんな彼女のことを心から応援してあげたいと思う。

 ──だから私にとらわれないで。私のことは、忘れてほしい。

「美咲ちゃんの方はどう? 手嶋君とうまくやってる? デート話とか聞かせてよ」

 暗い雰囲気を払うために私はわざとふざけて明るく言ってみたけれど、その程度で空気が変わるはずもなく、美咲ちゃんはうつむいたまま、顔を上げない。

「学校はどんな感じ? そろそろ文化祭の時期かなぁ。あ、ていうか今日は来ても大丈夫だったの? 授業があったんじゃない?」

「……今日は中間テストで、学校は午前に終わるから……」

 目元をぬぐいながらも、美咲ちゃんはようやくこちらに顔を向けてくれる。

 疾患を告げられた本人よりも傷付き、かなしんでいる美咲ちゃんの姿に、私はちょっとだけ可笑しいような、微笑ましいような気持ちになって、ほんの少し余裕が出てきた。

「テストかぁ……。私、そんなに頭よくなかったから、いつも平均ギリギリの点数ばかりだったよ」

「……」

「特に数学とかもう最悪。連立方程式までは何とかついていけたけど、二次関数? とかグラフとか、もう何がなにやら」

「……」

「美咲ちゃんは頭よさそうだし、私なんかと違って赤点とか取ったことないでしょ? 早く帰れるのは嬉しいんだけど、私なんかひとりで勉強してたら絶対マンガとか携帯とか見ちゃうよ」

 私の乾いた笑い声だけがロビーの壁に響いて虚しく消えていく間、美咲ちゃんは何も返すことなく、空元気に任せた明るい雰囲気作りが失敗に終わると、二人の間にどうしようもない沈黙が降りる。その合間を縫うようにして患者や見舞客が忙しなく通りすぎ、テレビからは一週間後に控えたアンテナのイベントを告げるニュースが、途切れ途切れに聞こえる。

「……美咲ちゃん。私ね、先生の紹介でアメリカの病院に移ることになったの。ここよりも専門の先生がたくさんいて、いい設備や新しい治療も受けやすいんだって。……会えなくなるのはさびしいけど、どのみちここにいてもいずれ私は──」

 そこから先は言えなかった。わずかに視線を向けると、美咲ちゃんはただ静かに顔を歪ませたまま、落ちてゆく涙を懸命に止めようとしていた。それは考えるまでもなく私のために流された涙で、私は彼女の思いやりの深さに、胸の奥が暖かく、そして苦しくなってきた。

「泣かないで、美咲ちゃん。いつか元気になって、きっとまた会えるよ」

 私が言ったことの意味を、多分美咲ちゃんも分かっている。

 それでも私は彼女に笑っていてほしかった。ほんの短い間だったけれど、私の幸薄い人生の中でたったひとり「親友」と呼べる相手が出来ただけでも、私は幸せだ。

「……燈子ちゃんは本当にそれでいいの?」

 嵐が来る直前の空を思わせる険しい顔付きて、美咲ちゃんは濡れた瞳をまっすぐに私へ向けて言った。

「……いいの。私は──」

「違うよ。……浩樹君のこと」

 美咲ちゃんの口から思わぬ人の名前を聞かされた私は、無意識に強く胸を押さえていた。鼓動が強く速くなり、ひとつ鳴るたびに絞られるような疼痛が走って、渇ききったはずの心から傷口が開いてゆくようだった。

「……私ね、燈子ちゃんと知り合って少し経ったとき、惣市さんに聞いたの。『あのとき燈子ちゃんは、どうして私を見てあんなに怒ってたの?』って」

 リハビリ室で初めて美咲ちゃんを目にしたときの光景が頭をよぎる。まだ浩樹君と再会する前だった私は、手嶋君と手を取り合って一緒に困難を乗り越えようとしている美咲ちゃんの姿に、嫉妬と羨望で感情を抑えられなくなって、大声を上げて部屋に戻ってしまったのだった。

「ごめんね。勝手に色んなこと聞いて。私、どうしても知りたかったんだ。でも直接聞く勇気はなかったし、聞いていいのかも分からなかったから。

 だから、渋る惣市さんからなかば無理やり教えてもらったの。燈子ちゃんが浩樹君のことをどれだけ想っていたか、二人の仲がどれだけ強く結びついているか、それから……離れてしまうことになった理由も」

 胸の奥の深い部分が締め上げられ、思わず顔をしかめてしまう。心の内を見られたくなくて、私は美咲ちゃんの視線から逃れようと顔をそらすも、彼女は畳み掛けるように続ける。

「……二人のことに私が口をはさむ権利なんてないのかもしれない。でも、燈子ちゃんは本当にそれでいいの? このまま浩樹君とお別れになったら、もう会えなくなるかもしれないんだよ? それでも──」

「いいの」

 今度は私が美咲ちゃんの言葉を遮って言った。

「結局、私の身体が治らないっていう結論は変わらない訳だし、浩樹君に会っても余計に別れがつらくなるだけだから」

「でも!」

「いいの! ……浩樹君はね、ずっと自分の人生を自由に生きたいって願ってたんだ。それなのに私は彼を縛り、に拘束してた。……私はね、美咲ちゃん。浩樹君の足手まといにはなりたくないの。私の存在が彼の人生の邪魔になってるなら、私は静かに消えてしまった方がいい。だから、これが一番いい終わり方なんだよ」

 ──ああ、そうだ。そのとおり。

 言い終えた瞬間、安堵にも似た解放感とさわやかな風が胸の内を通りすぎていった。溜まっていた気持ち/答えを口に出したことで、私は今ようやく浩樹君のことを諦めきれたのだと分かった。

 美咲ちゃんは再び俯いて何も答えない。その姿を見ていると、申し訳ないと思う気持ちと同時に、心が暖かくなるほどの感謝の念でいっぱいになって、鼻の奥がツンと熱くなってくる。

 ──これでいい。この穏やかな気持ちを持ったまま、そっと離れよう。

 せめて別れの言葉をきちんと伝えようと美咲ちゃんに手を伸ばしかけたそのとき、彼女は突然、キッと強く私を睨み付け、大声で叫んだ。

「よくない!!」

 さっきよりも息を荒くし、両手を強く握り、顔を真っ赤にしながら、美咲ちゃんは今にも私をひっぱたきそうな勢いでさらに声を張り上げる。

「そんなの絶対よくないよ!!」

 いつもは愛嬌いっぱいの丸い目を鋭く尖らせて、美咲ちゃんは呼吸を整える間もなくそのまま走り去ってしまった。

 気付けば周りの人たちも何事かと怪訝な視線を投げかけていて、思いがけない彼女の態度に、私は茫然としたまま、彼女が見えなくなるまでその後ろ姿を見つめていた。

「燈子ちゃん」

 聞きなれた声にハッとして首を巡らすと、少し離れたところにいた惣市さんがこちらへ歩いて来るところだった。

「さっき美咲ちゃんがすごい大きな声を出して走って行ったけど、何かあったの?」

 心配そうな顔で私の隣に座る彼女へ、私は少しばつの悪い思いで答えた。

「……私の時間がもうあまり残されていないことを美咲ちゃんに言ったんです。彼女、やさしい子だからすごくかなしんじゃって。当の本人である私よりもつらそうに涙を流すくらい。

 だから、私は平気だよってことを伝えたら、美咲ちゃんは『浩樹君とこのままお別れでいいの?』って、くれるんです。……本当にいい子ですよね。

 だけど私は、何ていうか、浩樹君の人生の重しにはなりたくなかったから、彼のことはきっぱりと諦めて、邪魔にならないよう、黙って離れようと思うんだって答えたら、美咲ちゃん、すごくこわい顔で『そんなの絶対よくない!!』って。……私、怒られちゃいました」

 これ以上他の人に心配をかけないように、私は惣市さんへ苦笑いしてみせる。彼女は何かを言いかけて、しかし途中で止めると、物悲しそうに私へ微笑み返した。

 そこからお互いに言葉が途切れ、黙ったままの気まずさをごまかすように、あてもなく視線を動かす。ロビーにはまばらに人が行き来し、自動ドアが開くたびに外の空気が入ってきて、その乾いた風の涼しさに、時の移ろいを嫌でも感じてしまう。

「髪……伸びたね。理容室へ予約取ってあげようか?」

 ふと思い付いたように、惣市さんが私の髪を触りながら言った。

「惣市さんが切ってくれませんか?」

「私が? あんまり上手くないよ?」

「かまいません。惣市さんに切って欲しいんです」

 私がそう頼むと、惣市さんは今度は含意のない笑顔で微笑んだ。

「分かった。準備してくるから、病室で待ってて」

 言われたとおり私が病室で待っていると、少したって彼女はハサミや道具を揃えて戻って来た。自信がないように言っていた割に惣市さんはどこか楽しそうで、椅子に座った私へケープを着けるときも鼻歌まじりだった。

「今日はどんな感じにしますか? お客様?」

 準備を終えると、てるてる坊主みたいな格好の私へ、惣市さんはおどけた調子で言う。

「かわいくショートにお願いするわ」

 そんな彼女の様子を見ていると何だか私も久しぶりにうきうきした気持ちになって、メイドにお世話されるお嬢様みたいな口調で答えると、惣市さんもまた「かしこまりました」と仰々しく応じ、二人して笑い合った。

 そうして私の髪が切られ始めると、私たちは黙ったまま、心地よく響くハサミの音に心を安らげた。ベッド脇の小さなキャビネットに置かれた惣市さんの携帯からは、色んなヒーリングミュージックがランダム再生されていて、のどかで牧歌的な曲の流れが、私の心の中に拡がるという乾いた平原に、甘く、やさしく、慈しみの雨を降らす。

 前の曲が終わり、次の曲へと入った。多分、フランス語だと思われる、どこか懐かしい素朴なメロディが流れ始めると、惣市さんは何故か少し焦ったように「別の曲にしようか」と、私の髪を切る手を止めて、携帯へ手を伸ばす。

「待って」

 私はほとんど反射的に彼女へ声をかけていた。

「止めないで。その曲、最後まで聴きたい」

 私がそう言うと、惣市さんは伸ばしかけた手を戻し、再び私の髪を切りだした。

 私からは彼女がどんな表情をしていたのか、何故歌を止めようとしたのかは分からなかったけれど、言葉も歌詞の意味も知らないその歌が、不思議と私のひび割れた心の内へ、穏やかに染み込んでゆくようだった。



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