第53話




 私の時間は再び朝に戻った。家に帰った日からすでに一週間が経っていて、私はまた虚ろな時間を繰り返す日々を繰り返していた。得たものといえば両親と居場所を永久に失ったのだという確証だけで、それさえももはや当たり前になってしまった締念に流されて、徐々に薄まり、灰になっていった。

 私はベッドの中で顔だけを動かして、外の景色を見つめた。変化のない窓から見える空はホッとするほど安らかな曇天で、ずっと眺めていると、何も変わらない/変えられない日々の中で密かに感じていた感情のさざなみが、嘘のように静まり返っていることに気が付いた。

 過去にも、未来にも、現在にさえどこにも居場所のない私には、もうこの病室──外に書かれたネームプレートと、私の名前がテープで貼られた点滴スタンドのたった二つ──にしか私自身を証明するものがない。

 浩樹君と過ごしてきた大切な時間も、両親と幸せに暮らしていた時間も失い、今の私は違う時代にタイムスリップしてしまったSFの登場人物のように、ひとりぼっちだった。

「お早うございます。藤咲さん。具合はどうですか」

 病室に入ってきた先生は、相変わらずテンプレートでつまらない挨拶しか出来ないらしく、応えるのも億劫だった私は、最低限の返答として、ベッドに横になったままただゆっくりとまばたきしてみせた。

「今日はあなたに大切なお話があるのですが……」

 先生はそこで一旦言葉を切ると、ちょっと意外なことに「中庭に出てみませんか?」と、微笑んだ。

 私が返事をしないでいると、先生の横にいた惣市さんがいったん外に出て車椅子を用意して戻り、手早く私を乗せる。そこからエレベーターで一階まで降りて、少し進んでいくつか角を曲がり、流されるまま、私は中庭まで連れて来られた。

 惣市さんに車椅子を押されながら、私たちはレンガで作られた遊歩道を共に回ってゆく。

 しばらく振りに来た中庭は、浩樹君と以前に来たときとはずいぶん印象が変わっていた。あれほど色彩に溢れていた景色は霞み、曇り空からのぼんやりとした陽光と合わさって、灰色に沈んでいるように見える。

「秋の気配が漂ってきますね」

 感慨深い様子で呟く先生の言葉を聞いて、そこで私は初めて、肌に当たる風がわずかに涼しいことに気が付いた。もう一度辺りを見渡してみると、浩樹君と一緒に眺めた花々は失われ、青い空に映えた真っ白の入道雲は薄いうろこ雲に変わり、心地よい汗をかかせた暑さは引いて、黄色と薄紅うすくれないを混ぜた風の薫りが、秋の入りを告げていた。

「藤咲さん、先ほども言いましたが、大事なお話があります」

 先生は歩みを止めて振り返ると、近くのベンチに座って私に視線を合わせた。

「あなたの現在の状態は、医学的にみて極めて稀な状態です。そのため、世界中の医療関係者や研究者にコンタクトをとりながら治療を続けてきたのですが、先日その内のひとりから『我々の病院に転院させてみてはどうか』と提案を受けたのです。アメリカにあるその病院は遷延性意識障害についての専門医が世界中から集う場所で、人員も設備もここよりもずっと整っていますし、より専門的で最新の治療を受けることが可能です。

 いかがでしょうか。これからのことを考えれば、私としては転院されることをおすすめします。もちろん藤咲さんさえよければ、ですが」

 色んなことに何も感じなくなっていた私だけれども、さすがにこれには少し驚いた。

 ──アメリカになんて行ったら、多分、もう浩樹君とは会えないんだろうな──。

 反射的にそう思って、忘れてしまったはずの痛みが再びうずきそうになるのを、私は必死で抑えた。

 私はこれから間もなく限りない眠りにつく。何年か、あるいは何十年かあとに奇跡的に再び目覚めることが出来たとしても、おそらく私のことを覚えていてくれる人は誰もいないだろう。だったら未練がましい想いを断ち切って、いい加減覚悟を持つべきだ。──私は多分、幸せにはなれないという覚悟を。

「──分かりました」

 私がひとこと先生にそう答えると、先生はかなしいような安心したような顔付きで、詳しい話やサインが必要な書類は後日改めて説明すると言って、去って行った。

 私もまた惣市さんに車椅子を押されながら、先生の話を反芻する。

 私の一日は、もう三時間もない。どのみちここに留まっていても、私の時間はやがてゼロになってしまう。だったら迷う必要なんかない。

 そうだ。私は間違っていない。これが正しい選択なのだ。

 ──きっと。



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