第52話




 三年ぶりの我が家に着いたとき、外から眺めて最初に感じたのは、人のぬくもりの欠けた寒々しい佇まいとは、こんなにも人を痛ましい気持ちにさせるのかということだった。

 すでに真夜中といっていい時間帯で、辺りの家々には当然明かりが灯っている。そこには人の暮らしの暖かさが滲み出ていて、しかし私の家だけが、暗闇の中に空いた大きな穴のように、虚ろな死の気配を静かに漂わせていた。

 隣に立つ惣市さんも、その物悲しい雰囲気を感じ取ったらしく、黙ったまま何も言わない。

 私は玄関まで歩いてゆくと、近くに並べてある植木用の煉瓦杭のひとつを引き抜いた。

「あった……」

 そこには玄関の鍵が変わらず隠してあった。私と両親しか知らない隠し場所が誰にも見つけられずにそのまま残っていたことに、私は何だか無性にかなしくなった。

「燈子ちゃん……、急がないと」

 小声で私に耳打ちする惣市さんへ、私はすみませんと返して、鍵を廻した。カタン、という音が思いのほか大きく響いたような気がして、私は一瞬ためらいながらも、そろりと玄関を開けた。

 真っ暗な室内には当然電気は通っておらず、私は惣市さんから懐中電灯を借りると、土間で靴を脱ぎ、きちんと揃え、スリッパを履いて、家に上がっていった。

 三年間誰もいなかった家はしかし思ったよりもきれいで、恐れていたほど廃墟という感じではなかった。電気や水道、ガスを通して掃除をすれば、きっとすぐにでも息を吹き返すだろう。

 それでも、枯れた花が差したままの花瓶や、染みの浮いた廊下の壁紙、食器棚に並べられたコップやお皿に、テーブルや椅子、飾り付けの小間物やテレビのリモコン、ゴミ箱の位置から私が開きっぱなしにしていた雑誌にいたるまで、ありとあらゆるものがそのままの場所で沈黙し、色褪せ、そして埃を被っている様は、この場所にもう誰も帰ってこないことを表していた。

 私はリビングから台所へ移動すると、冷蔵庫を開けてみた。中はすべてからっぽで何も残ってはおらず、無責任な親戚でもさすがに捨てないといけないものくらいは捨ててくれたのかと、つい苦笑いしてしまう。それから扉を閉め、たくさん貼られたメモ書きをライトで照らしてみた。


 ※味噌汁、鶏肉の唐揚げ、ほうれん草のおひたし、肉じゃが(野菜が少ない。レタスやキャベツみたいな生野菜なら燈子も食べるかも?)


 ※玉子三つ、賞味期限十日まで。


 ※振り込み、二十五日までに。


 ※お父さんに来月のシフトを聞く。


 ※洗剤、ティッシュ、残り少ない。早めに。


 そこには台所でいつも忙しく働いていた母が書いた、なんてことのない雑多な日々のメモ書きが乱雑に貼ってあるだけだったけれど、ありし日の母を思わせる手書きの文字は、それがほんの些細なものであれ、今の私には痛いくらい愛遠いとおしいものに違いなかった。冷蔵庫の上の方に貼られた三年前のカレンダーには、私たちが事故に遭った日付に花丸がしてあって、そこに書かれている『久しぶりにみんなでお出かけ。気合い入れてお弁当つくるぞ!』とチャーミングにデコレーションされた母の字を目で捉えると、私はよけいに涙がにじんできた。

 私はその場を離れ、父親がよくいた和室に足を運んだ。

 リビングのエアコンが苦手な父は、真夏の暑い時期でも窓を開けて、よく煙草を吸いながら本を読んでいた。その手には私が小学校の修学旅行でお土産に買ってあげた携帯用の灰皿をいつも持っていて、とても気に入ってくれたようだった。

 父の読みかけの本が積んである脇にその灰皿が置いてあった。私がそれを開いてみると吸殻が二本残っていて、タールとニコチンの混ざった鼻をつくにおいが、父親の面影を強く思い出させる。ご飯時はんどきになってもなかなか読書を止めず、和室から動こうとしない父を、準備に慌ただしく動いている母に頼まれて、私はしょっちゅう呼びにいっていた。そして父はこちらのことなどおかまいなしに、今読んでいる本の面白さを子供みたいに無邪気に語って聞かせるのだった。

 そんな父の話を私はあきれ半分に聞いていたけれど、その時間が私はきらいではなかった。「はいはい。あとで聞くから、早くご飯にするよ」と言いながらも、父の語りは要点を掴み、分かりやすく情熱的で、ついつい話に引き込まれそうになる気持ちを必死で隠していたのも一度や二度ではない。

 そしてそのときにいつも漂っていたのが、煙草のにおいなのだ。あれだけ嫌いだった煙草のにおいが、今の私には大切な記憶になっていた。

「燈子ちゃん、そろそろ出ないと……」

 側立つ惣市さんに、私は「すみません。最後にあと一部屋だけ」とことわって、二階へ向かった。階段を上がり、物置にしている部屋とは反対の西側の部屋の扉に、私は手をかけた。

 私の部屋の扉は、開けるときに少し独特の軋んだ音がする。耳馴れたその音と同時に中へ足を踏み入れた瞬間、他の部屋とは違う、懐かしさと置いてけぼりにされたような感慨が同時に私の心へ波寄せてきて、私は思わずその場にうずくまってしまった。

「燈子ちゃん!? 大丈夫!?」

「大丈夫、です……。ちょっと……」

 私の背中をさすりながら、看護士として体調へ注意を払う惣市さんに、私はもう一度「大丈夫です」と答えて立ち上がると、改めて自分の部屋を見渡した。

 お気に入りのマンガやCDが並んだ本棚、奥側の壁に沿ったベッド、その上にはハンガーにかけられた中学校の制服がきちんとかかり、窓際に置かれた勉強机には、教科書や辞書やミニコンポが、まるで私が今でもここにいるかのような自然さで私を待っていた。その馴染み深さは私の心を鷲掴みにし、痛いくらい強烈に引っ張って放そうとしない。

 ここに越してきたとき、私は初めて自分の部屋を持てる嬉しさに舞い上がっていたことをよく覚えている。それまではマンション暮らしばかりで、自分の部屋などは持たせてくれなかったのだ。何もない板張りの空間から、父と共にベッドを運び入れ、母と共に本棚を組み立て、親子三人で勉強机の位置をああでもないこうでもないと、わくわくしながら置いたり移動させたりしながら、少しずつ私は私の居場所をつくっていった。父には勉強を教えてもらい、母には悩みを聞いてもらい、楽しいときも、かなしいときも、嬉しいときも、怒ったときも、私はこの部屋ですべてを感じ、そしてそんな私の側にはいつも両親がいた。

 だからこそ、他のどの場所よりも私をやさしく迎え入れてくれるこの部屋がゆっくりと錆び付いてゆくのを目の当たりにしたのは、何よりもつらく、さびしく、過去の様々な思い出が私をよけいにさいなむのだった。

「……帰りましょう」

 私の呟きに、少し虚をつかれた様子の惣市さんは「もう、いいの?」と、時間がないと言っていたにもかかわらず、やさしく確認してくれる。

 私は何も触らず、何も持ち帰らず、ただ頷いて答えた。

 永遠にときが凍り付いたこの場所に、父も、母も、私も、決して戻ることはない。この場所にはもう、二度とが流れることはないのだから。



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