第22話




 夕食時になっても父親の怒りは治まる気配がなく、母親が話しかけても返事ひとつしない。

 そのくせ態度だけは傍目からも明らかなくらい苛立った空気を滲ませていて、しかも当人がむっつりと口をつぐんだまま何も話さないものだから、周りにいる人間は余計に神経を使う。テレビでも点いていればまだ少しは違ったかもしれないけれど、機嫌の悪いときの父親は、雑然とした音や声を聞くだけでますます腹を立てるので、夕食の席はまるでお通夜のように静まり返っていた。

 俺と母親はそんな父親の様子をこっそりと窺いながら、視線だけで会話を交わした。

“何があったの?”

“知らね”

 アイコンタクトは一瞬で終わり、針の筵のような食卓に、箸が動く音だけが陰鬱に続く。

 俺はうんざりした気持ちでさっさと食事を片付けると、自分の部屋に引き込もって宿題を済ませることにした。

 そうして答えを写したり携帯を弄ったりしながら三十分ほど経ったとき、襖越しに「何があったの?」と、母親が父親へいたわるように話しかける声が聞こえてきた。

 おそらく父親はまだ居間にいて、酒でも呑んでいるのだろう。父親が不機嫌なとき、母親はいつも俺がいないときを見計らって父親に声をかける。二人のおなじみのやり取りだ。

 俺は宿題の手を止めて、耳をすませた。父親はしばらく何も答えなかったが、やがてボソボソとしたしゃがれ声で話し始めた。

「……今日、篠原のところへ行ったんだ。例のデカいアンテナの最後の資材を届けにな」

 父親の言う“デカいアンテナ”とは、俺と藤咲が学校帰りによく眺めていたあのアンテナのことだ。

 父親の工場はもちろん、この辺りの製造業や土建屋はみんなこの巨大な公共事業に携わっていて、経営していくのがやっとの我が家のような小さな製造業者にとっては、まさに救いの手ともいえるプロジェクトだった。

「……ところが篠原の奴、今日はいつもと違ってやけに口数が少ない。妙にそわそわして、心ここにあらずな状態だったから、俺はだんだん腹が立ってきて、奴に言った。“言いたいことがあるならはっきり言え”とな。

 そうしたら案の定、“お前のところとはもう取引出来ない”だと。“経営が苦しい”のが理由だそうだ」

 ふん、と父親は吐き捨てるように皮肉に笑う。

「そうだったの……。でも仕方ないわよ。どこもギリギリでやっているんだもの。私たちだってそうでしょう?」

 母親の言うとおり、父親の工場は二〇一一年に起きた大震災によって、ほとんど休業状態に追い込まれていた。俺たちが住んでいる場所は岡山県なので、直接的な被害はほとんどなかったものの、下請けの下請けをやっている我が家のような零細企業にとっては、元請けの営業停止や物流の停滞は極めて大きな死活問題だった。

 結局、気心の知れた昔からの従業員を解雇せざるを得ず、工場から明かりは消え、作業音もめったに聞こえなくなった。

「お前は本気でそう思っているのか!? 田口の奴が裏から手を回してきたに決まっているだろうが!!」

 一際大きな父親の怒声が響き、続いて何かが割れる音がする。ここ二年ほどで何度も見かけた光景だ。

「……田口さんのことは私も腹が立つわ。でもあなたは負けずに筋を通しているじゃない。それだけでも立派だと私は思う」

「そんなものはただの自己満足だ。アンテナの建造が終わって、俺はもう用なしって訳だ。田口の配下にならない俺のような人間は特にな。クソが……」

 酒が大分回ってきたらしい父親は、次第にその勢いを衰えさせて、くだを巻きながらコクリコクリと船を漕いでいる様子だった。

「……そろそろ出番かな」

 俺はため息をついて襖を開けた。

 俺も母親も慣れたもので、二人で父親を寝室まで運ぶと、居間に戻って割れたグラスの破片を手際よく片付け始めた。

「弱いくせに無理して呑んで……」

 わずかに鼻声な母親の呟きと、割れたグラスの重なる小さな音が、生活感で満たされた狭い居間の中で当たり前のように合わさる光景を目の当たりにして、ふと俺は“あぁ、こんなことは俺たちの間では日常なんだ”と察してしまった。

 一度その事実に気付いてしまうと、酒の染みのついた畳や、傷だらけの家具、背中を丸めて屈んでいる母親の後ろ姿など、目に映るものすべてが何だかひどく惨めに思われて、俺はたまらない気持ちで立ち上がった。

「どこへ行くの? こんな時間に」

「少し……、外の空気を吸ってくる」

 母親にそう告げて、俺は玄関を出た。そのまま父親の工場まで歩き、中へ入ると、手探りで古びた蛍光灯のスイッチを入れて、辺りを眺めた。

 きっと俺が産まれる前からそこにあったであろう作業機械の群れは、今はひっそりと静まり返り、古びた安い白熱灯に照らされて、かろうじて夜の闇から逃れている。けれども作業場の四隅には闇がまだ濃く溜まっていて、その影の中に、従業員が休憩に使っていた小さなテーブルと丸椅子が四脚、取り払われることもなく、ただ未練のように置かれてあった。

 田口さんはいつも、向かって左側の壁際の席へ座っていた。明るく陽気な人で、従業員の中では一番若く、俺にとっては歳の離れた親戚の兄といった感じで、無愛想でひねくれ者の俺にもよく気さくに話しかけてくれていた。

 俺は彼の馴れ馴れしさに戸惑いつつも、コーヒーを一緒に飲んだり、学生だったころのバカ話を聞かせてくれたり、時々は仕事の愚痴をこっちが聞くこともあったけれど、俺はその時間が嫌いではなく、藤咲といるときとはまた違った意味で、心が安らぐひとときだった。

 田口さんが独立したいと言って退職願いを出したのは、三年前の秋だった。

 自分の工場を持ちたいと田口さんは折に触れて言ってはいたものの、父親を始め、従業員たちはみんな突然のことに驚き、何とか思い止まることは出来ないかと引き留めたけれども、田口さんの意思は固く、そこまでの決意ならばと、みんなで新しい門出を祝って送り出したそうだ。

 そうだ、というのは、俺には当時のそうしたゴタゴタをまるで知らなかったからだ。

 藤咲が事故に遭い、意識を取り戻さないということの方が、俺にとってはずっと重い現実だった。

 世界から色彩が抜け落ち、あらゆる物事への関心や執着を失っていった俺がようやく周囲の環境へ目を向けるようになったのは、明くる年の三月に起きた、あの歴史的な大震災が発生してからだった。

 悲壮感とぶつけようのない怒りに満たされた毎日の中で、大人たちの話題に上がるのは、仕事のこと、これからの生活のこと、そして独り立ちした田口さんの工場のことだった。

 大人たちの話によると、田口さんの工場は、新規に事業を始めたばかりにしては不自然に規模が大きすぎるらしい。周りの工場や土建屋、製造業などを次々と吸収し、わずか半年間でこの辺りの生産事業のほとんどを手中に収めたその背後には──いつどこで係わりを持ち始めたのかは分からないけれども──地元出身の大物政治家との癒着があるのではないか、どの事業者もその政治家からの圧力に屈したのではないか、という噂がまことしやかに流れていた。

 そしてその噂は、アンテナ受注に関わる仕事の約六割を田口さんの会社が占めていて、なおかつ震災復興支援金をどこよりも多くもらっているという事実によって、確信へと変わった。

 父親からすれば、田口さんの行いは恩を仇で返されたようなものだろう。

「奴に仕事のいろはを教えてやったのも、事務手続きの相談に乗ってやったのも、ひとりでやっていくという、奴の言葉を信じたからだ!

 それなのにこんな薄汚ぇ手段で何でもかんでも自分のモンにしていきやがって……!

 ……結局奴は俺のことを金儲けのために利用できるくらいにしか思ってなかったんだ。あの野郎……!」

 そんな父親の一人言めいた愚痴を何度聞かされたことだろう。酒を呑むようになってから、父親はどんどん弱くなってきている。

 今だってそうだ。俺や母の前であんな風にくだを巻きながら愚痴をこぼすなんて、以前の父親からは考えられないことだった。

 けれども俺は、俺の人生に介入し、選択を許さず、思うままに支配してきた父親が、近しい者に裏切られ、疲弊し、弱っていく姿を見ても、何故か“いい気味だ”とも“ざまあみろ”とも思えなかった。

 ただ、蛍光灯の傘に積もる埃のように、心の古い部分が立てる軋んだ音を聞きながら、さびしいともかなしいともいえない気持ちをもてあましていた。



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