第10話
藤咲との下校はその後も続いた。学校からの帰り道をただ一緒に歩くという、それだけのことだったけれど、俺たちはまるで幼いころからの知り合いのように意気投合し、すぐに距離が縮まっていった。
それでも、教室の中ではお互い話しかけることもなく、接点のないただのクラスメイトのように振舞っていた。
それは、他人に知られることで二人の間に余計なものが入り込むかもしれないという不安よりも、ただ何となく二人だけの秘密の関係みたいな結び付きが、とても心地よかったからだ。
「ごめんね。ちょっと待たせちゃったかな」
いつものように、校門を出て少し歩いた場所で待ち合わせていると、傘をさした藤咲が、息を弾ませながら小走りに駆け寄ってきた。
「いや、俺もちょうど来たところ」
まるでデートの待ち合わせみたいだと毎度思ってしまう。さすがに顔が火照ることはなくなってきたけれど、胸をくすぐられるような感覚は未だにあって、藤咲と会うときのこの清洌な気持ちは、このままずっと消えて欲しくないと思った。
行こっか、と藤咲が歩き出し、俺も続く。田んぼに挟まれた小道には他に通る人影も少なく、濃い緑色の稲と草いきれが、どこまでも流れていた。
一週間前に梅雨入りした空は今日も雨を降らせ、俺たちは連れ立って歩きながらも、何となく気分が内に沈んだまま、会話も少ない。けれどそれは決して気まずい沈黙ではなく、足音に混じって傘に当たる雨雫の音も、二人の間で心地よく響いた。
それでも、広げた傘のせいでいつもよりお互いの距離がわずかに遠く感じてしまうのは、ほんの少しさびしい気がした。
「……親父だったら“女々しいことを言うな”って怒ってるだろうな……」
「お父さんとケンカでもしたの?」
藤咲は振り返って傘を少し持ち上げて言った。
「あ、いや、ケンカっていうか……」
どうやら思っていたことが独り言に出ていたらしい。身内のゴタゴタを知られたようで、俺はつい口ごもってしまう。
「なんかちょっと意外」
「えっ?」
「だって浩樹君、ケンカとか、全然しなさそうに見えるんだもん。優しくて、穏やかで、控えめで、私からすれば“大人”って感じだから」
そう言って藤咲は可笑しそうに小さく笑う。その笑顔が眩しくて、俺は傘の下に顔を隠しながら呟くように答えた。
「そんなんじゃないよ。俺、藤咲が思っているほどいい人なんかじゃないし」
ため息とともにこぼれた言葉を、俺は後悔した。藤咲にあまり愚痴めいたことを言って嫌われたくない。
そう思ってこれ以上の話を切り上げるつもりだったのに、藤咲は優しく微笑んで、黙ったまま続きを促してくる。
その優しさに甘えるように、気付けば俺は口を開いていた。
「……親父は、俺が物心ついたときから厳しくてさ。特にお金の使い道にはうるさくて、よく言われたのが『つまらんものを買ってくるな!』っていう言葉。母親に百円や二百円もらっておかしや漫画雑誌を買ったのが親父に知られたら、毎回そう怒鳴られていたよ。
俺も子供だったから、自分が欲しくて買ったものは、みんな“つまらないもの”なんだって素直に反省して、こづかいをもらうことも、おねだりをすることもしなくなった。自分が選んだものには価値がないんだってね。
そんな風に育てられたせいもあって、俺はまだ十歳にもならないうちに妙に醒めてしまったっていうか、みんなが当たり前にやってることが俺にとってはすごく違和感のあることのように思えてさ。例えば漫画とか、ゲームとか、カードとか玩具とか、俺にはどこが面白いのかさっぱり分からなかった。
だから今まで一緒に遊ぶ友達も出来なかったし、たまにクラスメイトに遊びに誘われても、根っこの部分でみんなとずれているから共感できるものが何にもなくて。……しだいにみんな俺を煙たがるようになって、俺もみんなから離れていった。他人にも物事にも興味を失っていって、そのくせ、友達同士で楽しそうに笑っていたり、部活なんかの活動で結果を出したりするみんなの姿を端から見ていると、何となく俺だけが置いていかれるような気がして、じっとしていられなくなるんだ。
……それなのに、俺は俺自身が何を選び、何に価値を見出だせばいいのか、未だに分からないんだ。このままじゃ、俺は何が大切なものなのかさえ、一生自分で決めることが出来ないって分かっているのに、今また親父は俺にこう言うんだ『お前もそろそろ家の工場の仕事を覚えろ』ってね。
……すべてを親父のせいにするつもりはないけれど、過去も未来も、俺の人生は親父に支配されっぱなしで、ホント嫌になってきてさ。どこか遠い場所で、誰にも気兼ねせずに自由に生きられたらなって。
何か、そんなことを最近よく考えるんだ」
長い俺の独白を、藤咲は静かに聞いてくれていた。
俺たちの間に言葉はなく、二人分の足音と強くなってゆく雨脚だけが、ただそこにあった。暖かで心地よかった静けさは、冷たく、硬質な寂寞へと変質していって、そのさびしさに堪えかねたように、藤咲が躊躇いがちに俺へ問いかけた。
「……浩樹君は、今のこの場所が、嫌い?」
彼女がどんな顔をしているのか、傘に隠れて見えなかったけれど、俺はため息混じりに「そうだな」と答えて、思ったことを正直に明かした。
「……俺、ここじゃどこにいても縛られているような気がするんだ。代わり映えのしない景色、田舎臭いにおい、生ぬるい人間関係、息苦しい教室、焦るだけの毎日、工場の作業音……。
どれだけ時間が経っても、ここは変わらない。ここにいたんじゃ、ずっと変われないって思うと、何か、イラついてきて、どうしようもなく胸が締め付けられるような気持ちになってしまうんだ」
「……そっか」
藤咲はどこかさびしそうに呟くと、何かを考え込むように口を閉ざした。
物悲しい沈黙が再び戻り始め、湿気を含んだ弱々しい風が顔に当たる。雨のにおいの中、黒灰色の雲の向こうで小さく鳴る遠雷の音を聞くと、不意に切ない気持ちにおそわれて、けれども俺の顔に浮かぶのは、何故か渇いた笑みだった。
「それでも私は、浩樹君がうらやましい」
「えっ?」
藤咲がぽつりとこぼした言葉の意味を考えるよりも前に、彼女は突然傘を捨てて、雨の中に躍り出た。
「藤咲!? 何を──」
彼女は全身で雨を受け止めるように、空を仰ぎ、両手を伸ばした。
どこか神聖なその瞬間に、俺は咄嗟に言葉を出すことが出来なかった。振り返った彼女の儚い顔には、さびしさとかなしみに包まれながらも、ひまわりのような微笑が浮かんでいた。
雨の中にありながら、太陽を探すひまわりのような。
「私ね、両親の仕事の都合で、小さなころから転校が多かったの。同じ学校には最長でも一年、早いときは半年も経たずによその学校へ転校させられてた。
せっかく出来た友達も、馴染み始めた制服も、覚えたての景色も、みんなゼロにして、私は新しい土地へ行くんだ。
どこへ行っても、誰の心にも、どの場所にも、私はいない。
だから私は、浩樹君が少し、うらやましい」
藤咲は両手を左右に伸ばし、一歩ずつ確かめるように歩き出す。その歩みはバレエのようでもあり、どこかおどけているようにも見えた。
「私が最後に学校へ行く日はいつも決まって雨だった。雨が嫌いになったのはそのころからかな。気分は鬱ぐし、湿気はじっとり身体に粘りつくし、髪の毛はモサモサになるし。
でもね、こうして雨に打たれたら、とっても気持ちいい。何だかすごく可笑しくて、楽しいの」
彼女はそこで茶目っ気たっぷりにターンしてみせると、子供みたいに無邪気な笑顔を俺に向けた。
踊るようなステップで水溜まりを跳ね回りながら、身体中で雨の洗礼を受けている藤咲は、とても美しかった。
あたかも雨雫のひとつひとつを音符にして、身体に弾かせながらメロディを奏でているように。
雨煙に霞む視界越しに、俺は夢うつつな気持ちを抱え、ただただ彼女の姿に見とれていた。
「浩樹君、私にはね、“今”しかないの。過去も、未来も、不確かで、曖昧で。手にとって触れられるような思い出もなければ、間違いなく信じられるような行く先もない。
だから私は、このとき、この瞬間を大切にしたいって思うんだ。多分、明日になればまた雨が嫌いになるんだと思う。それでも“今 ”は雨に濡れるのが楽しい。その瞬間の思いを、気持ちを、私は過ぎ去ったあとも忘れないでいようと思う。そうして積み重ねていけば、いつか振り返ったときも、さびしくならないって信じてるから。
だからね、浩樹君も“今”しか感じられないものを大切にしていけば、きっとその先につながる答えが見つかるんじゃないかな」
──あぁ、だから、なのか。
ようやく分かった。何故、藤咲に惹かれたのか。その理由が。
彼女は俺とは違った意味で“今”に囚われている。過去にも未来にも行き場所はなく、“今”にしか生きられないのだ。
それは空っぽな過去と、確定された未来の狭間で生きる俺とよく似ている。
〈俺は藤咲に同じものを感じていたんだ。その声に。その瞳に。
諦めて、でも諦めきれなくて。俺はきっと──君に救いを求めていたんだ〉
彼女の言うことに全て納得した訳ではない。今のままでは現実を変えられないし、多分、また日々が嫌になって、鬱々と愚にもつかないことを考えたりするのだろう。
それでも藤咲となら、俺たちが求めた未来へ向けて歩いて行けるような気がした。例えそれが叶えられないと知っていても、望んだ生き方とは違っていたとしても、二人一緒なら、きっと。
──そう、信じていた。
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