第11話




 大きく息を吸い込み、閉じていた目を徐々に開いてゆく。

 左手で持った弓を一度頭上まで掲げ、右手で弦を引き絞ぼりながら、目線の先に的を捉えるように弓を下げてゆく。

 ゆっくりと息を吐き、自身の鼓動に耳をすませ、矢が的を射ている想像を明確に思い描く。一切の雑音を意図的に消し去り、無風の湖面に雫を落とすように、弦を離す。

 小気味よい音と共に放たれた矢は、しかしゆるやかな放物線を描きながら的から大きく逸れ、的場の脇に刺さった。

 なかば分かっていたこととはいえ、思わずため息が漏れてしまう。

「“残心”を忘れているよ。宗澤君」

「あ、すみません……」

 横合いから、からかうような、悪戯をたしなめるような声がして、俺は形だけの残心を作法通りに行った。

 多少、決まりが悪くなって声の主に向き直ると、彼女はクスクスとあどけなく笑っていた。

「笑わないで下さいよ。瑞希先輩」

「ごめん、ごめん」

 そう言いながらも、彼女の顔はいまだ笑っている。

 女子にしては高い身長に、知的で少し低めの声。実年齢よりも大人びた印象の高山瑞希たかやまみずき先輩は、しかし笑うとむしろ普段よりも幼く見える。

「……瑞希ちゃん先輩って呼びますよ?」

「おっと、思わぬ逆襲」

 艶やかな黒髪をひとつにまとめ上げ、猫を思わせるわずかにとがったつり目を驚かせる瑞希先輩は、その袴姿と相まって、撫子というよりも椿のような、凛とした佇まいを感じさせる。

 そういった、人の心証をどう思っているのか、当の本人は女の子扱いされることを苦手としていて、代わりと言わんばかりに“瑞希みずき”という自分の名前を「中性的で私にピッタリだ」として気に入っている。ゆえに友達や後輩には、名字ではなく、瑞希と名前で呼ばせているのだった。

「どうする? まだ続ける?」

「いや、今日はもう帰ります」

 先輩の問いかけに、俺は首を横に振って弓を弓掛けに立て掛ける。

 元々ゆるい部活なので、射場には俺たちの他に部員はおらず、傾いた日射しが床板にさびしく照り返っていた。

「そうか。私はもう少しやっていくから、気をつけて帰ってね」

「先輩も、あまり暗くならないうちに上がって下さい」

 軽く頭を下げて、更衣室で制服に着替えると、俺は射場を出た。

 十八時に近い放課後の学校は、夏の日の名残のおかげで、まだ明るさと余熱を残していたけれど、徐々に部活終わりの生徒たちが帰宅し始めていた。

 俺はその流れにまぎれるようにして、遠目から瑞希先輩の射を眺めた。

 胸を張り、背筋を伸ばし、全身に過不足なく緊張感をみなぎらせ、先輩は静かな清流を思わせる淀みない所作で弓を引くと、わずかな間を持ち、まったく姿勢を崩すことなく、流麗に矢を放った。

 放たれた矢が当然のように的へあたったことよりも、結果に動ぜず、射を終えても決してだれることなく気を引き締めたまま、最後まで凛々しさを失わない彼女の佇まいに、俺は強く憧れを抱いていた。

 そして瑞希先輩のことをそういう風に見るたびに、かつて同じような視線を注いでいた藤咲のことを、俺はいつも思い出してしまうのだった。



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