第12話




 藤咲が昏睡状態になってから、三年の月日が経っていた。俺は中学生から高校生になり、俺を取り巻く環境は変化していった。制服は学生服からブレザーへ変わり、かつて歩いて通った道を今は行き帰りの電車から眺めている。新しい学校で少しはクラスメイトとも話すようになったし、漫画やゲームを買ってみたりもした。けれど──。

 そこに、藤咲はいなかった。

 放課後の教室。行き帰りの人波の中。電車から覗く英会話教室の窓。携帯の画面。二人でアンテナを眺めたあの丘。

 まるでどこかで聞いた古いラブソングのように、俺は藤咲の姿を捜して、いつも彷徨っていた。

 藤咲が病院にいることは分かっている。それでも、今という同じ時間、同じ気持ち、同じ思いを共有出来たら、それだけで不安やかなしみなど消えてなくなるのに、と考えずにはいられなかった。

 瑞希先輩に出逢ったのは、そんなことをずっと強く思い詰めて毎日を過ごしていたときだった。


 新しい高校に入学して二週間ほど経ち、各部の紹介がさかんに行われていた春先、俺はその日も藤咲を捜して学校をあてもなく歩いていた。

 いつしか人気のない場所へ来ていた俺は、ぼんやりとしたまま、ここは何をする場所なんだろうと辺りを見回した。グラウンド端の、小ぢんまりとした細長い平屋の建物が一棟あるのみで、運動をするには狭く、文化部にしては中途半端な場所だ。

「そこの君、見学希望かな?」

 声のした方に向くと、袴姿をした女子の先輩らしき人物が建物の入口近くに立っていて、そこで俺はここが弓道部であることを知った。

「何なら体験してみるかい?」

「あ、いえ……」

「そうか。じゃあ見学だけでもしていってよ。辺鄙なところにあるから、新入生もなかなか寄り付かなくて」

 そう言って先輩は振り返りもせず、射場に上がってゆく。

 その誘いに乗ったのは、特に断る理由がなかったというだけでなく、そうした先輩の素っ気ない振る舞いに、何となく惹かれるものを感じたからだ。

 先輩のあとについて恐る恐る射場に上がると、同じように袴を着た他の部員たちが、思い思いに射を行ったり、だらけたりしていた。

「ほらみんな、一年の子が見学に来てくれたよ」

 先輩の言葉に、他の部員たちは「はーい」と生返事をしながら俺を見たけれど、特に何をすることもなく、マイペース振りは先ほどと変わらない。

 そんな中、俺に声をかけてきた先輩だけが射場へ真っ直ぐ進み、俺に何の説明もなく、俺が見ているかどうかさえ確認せず、弓を手にした。

 目を閉じ、大きく息を吸い込み、吐き出しながら、ゆっくりと目を開く。

 瞬間、先輩を取り巻く空気が変わった。

 周囲の弛緩した空気の中で、先輩だけが冬の朝のように張り積めた緊張感をまとい、その視線は、ただ的だけを捉えている。素人の俺でも分かるほど洗練された、しなやかで美しい所作を流れるように行い、一瞬の沈黙。

 放たれた矢は、一切ぶれることなく、直線の道を駆け抜けるようにして、的へ突き刺さった。

 いつしか他の部員たちも先輩の射に見惚れていて、男子のため息と女子の歓声が、耳障りなほどに辺りを満たした。

 そうした声を先輩はまるで意に介さず、丁寧に残心を終えて、俺に向き直った。

「どうだった?」

 微笑みかけてくる先輩の佇まいには、誰にも、何にも媚びることのない、ある種の力強さがあって、それは放たれた矢の軌跡に明確に表れていた。

 「いや、何ていうか……、すごかったです」

 俺はただ茫然としたままそう答えた。

「そうか。もしその気になったら、是非入部してくれ。うちはいつでも歓迎だからね」

 嬉しそうに笑う先輩は、さっきまでの大人びた雰囲気から一変して、小さい子供のように無邪気な笑顔を向けてくる。

 そのギャップに俺は戸惑いながらも、長い間誰も入らなかった心の奥の埃っぽい部屋に、小さな灯りがほのかに灯ったような気がした。

 だからだろうか、俺は先輩から部活紹介のパンフレットを受け取りながら、無意識に「あの」と声をかけていた。

「うん? なに?」

「いや、えっと……、俺も、先輩みたいな矢が撃てますか?」

 適当に思い付いた言葉にしては、淀みなく口に出た。多分俺は、このときから無意識に先輩へ憧れを抱いていたんだろう。

 先輩は一瞬ぽかんとして、からからと笑った。

「それは君次第だね。だけど──」

 そう言いながら、先輩は突然前屈みになって俺の目を覗き込む。

「えっと……先輩?」

「射が上手くいったときは、最高の気持ちだよ。清々しい力が身体の隅々まで行き渡って、心の中に一本スジが通った感じ」

 その一言は、何をしても動かなかった俺の心を大きく揺さぶった。いつも焦って、迷ってばかりいる俺には、真っ直ぐで力強い芯になるようなものをずっと求めていたのだ。

 心の動揺が激しくて、俺は「考えてみます」と一礼して逃げるようにその場を去った。

 弓道に興味なんてなかったはずなのに、帰り道を歩きながら、俺は弓道部へ入ることを決めていた。

 今になって思えば、俺は何かを始めたかったのかもしれない。胸のところだけ欠けたパズルの隙間を補うように。

 それでも、もし瑞希先輩がいなければ、俺は弓道部に入ろうとは絶対に思わなかっただろう。初めて会った先輩の姿は、俺にとってそれほどまでに圧倒的だった。

 家に帰ってから、俺は両親に弓道部へ入りたいと告げた。弓や袴などの必要品がそれなりに高い値が張るので、母親はともかく、親父には絶対に反対されるだろうと覚悟していたけれど、意外なことにすんなりと許してもらえた。

「お前にはむしろ必要なのかもしれない」

 ただ一言そう呟いた親父の言葉だけが、どういう意味を持つのか分からないまま、しかし俺の耳に残った。


 次の日の放課後、先生に入部届けを出して、俺は早足で弓道部の部室へ向かった。

 思ったとおり、射場には誰よりも早くから先輩が一人で練習をしていた。

 俺たちの他に人はおらず、野球部かサッカー部のかけ声が遠くから響いてくる。

「来ると思っていたよ」

 矢を選ぶ手を止めて、先輩が俺を見る。

 俺は少し居住まいを正して、久しぶりに大きな声で挨拶をした。

「今日からお世話になります。宗澤浩樹です。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしく。私が部長の高山瑞希だ。瑞希と呼んでくれ」

 笑顔の中に大人っぽさとあどけなさを混在させる瑞希先輩へ、どぎまぎする心を悟られないよう、俺は深く頭を下げた。

 高校一年の春、何かを変えられるかもしれないという期待に、俺の心は高揚していた。


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