第13話




 気だるい終業式を終えて、俺はぼんやりした頭でホームルームを聞き流していた。教室は明日から始まる夏休みに浮わついた喧騒で満たされていて、遊びに行く約束や、恋人との予定を楽しみにしている話し声が、所々から漏れ聞こえてくる。

「お前ら、夏休みだからって浮かれてんじゃねーぞ。二年の夏をどう過ごすかでこの先の進路が決まるといってもいいんだからな」

 担任の男性教師の注意にも、真面目に聞く者はいない。先生も今日くらいはと大目に見ているのか、ざわつく生徒たちを叱ることはなく、しかしそのせいで度々話が中断を余儀なくされる。

 ──こんなことしてる場合じゃない──

 苛つく気分を抑え、いつもの口癖が出そうになるのを堪えながら、何とか終令の四〇分を乗り切ると、俺は誰よりも早く教室を出て射場へと向かった。

 今日は瑞希先輩よりも早かったらしく、射場には誰もいなかった。

 靴を脱いで上がると、板張りの床からひんやりとした心地よい冷たさが伝わってきて、入部したころと変わらないその冷たさに、俺はどことなくホッとした気持ちで、閑散とした射場を見回した。

 弓道部に入って一年が過ぎた。

 藤咲があんな目にあってから少しずつ腐ってゆく心へ、久しぶりに希望が持てたあの春の日。この人となら、この場所でなら、何かを変えられるかもしれないという願いは、しかし叶うことはなかった。どんなに頑張っても俺の放つ矢は、一度として的へ中ったことがなく、まるで何も変えられない俺の人生を象徴しているかのようで、気ばかりが焦って余計に射が乱れてしまう。

〈このままじゃだめだ。たったひとつでもいいから何かを変えないと〉

 だから俺は決めた。夏休み明けにある大会で引退する瑞希先輩へ、せめてわずかでも成長を見せられるように、夏休み中に必ず的に中てみせると。

 簡素な造りではあるけれど、精神統一しやすいように設計された射場は、心地よい静けさで満たされていた。

 とはいえ、ひとりきりの好都合な時間はそう長くは続かないだろう。ホームルームが終わる時間帯は、だいたいどのクラスも大差はない。

 俺は着替えることもなく、制服のまま早速弓を手に取って構えた。弓道においては、単に矢を的に中てるだけではなく、立ち姿勢から、弓の構え、射に移る際の“気”の入り方や、礼節、精神性なども重要視されるのだが、俺は「的にてること」を最優先させて、そのすべてを省略した。

 一回、二回、三回と射を行うも、やはり矢は的に中らない。それでもその程度のことは想定内のことだったので、俺はかまわず射を続けた。

 しかし十回、二十回と続けても変わらず的に中らないとなると、さすがに徒労感でいっぱいになってくる。

 ため息と共に矢を回収し、沈んだ気持ちで射場に戻ってくると、入口から上がってきた瑞希先輩と鉢合わせた。

「お、早いね。感心感心」

 瑞希先輩は笑顔で誉めてくれたけれど、俺は複雑な気持ちを隠して、曖昧に笑った。

「みんなもせめて宗澤の半分くらいやる気があればなぁ……って、部長の私がこんなだから、あまり偉そうなことは言えないんだけどね」

「そんなことないですよ」

 少なくとも僕はあなたに憧れてこの部活に入ったんです、とは言えなかった。このタイミングで言葉にするには、何だか重たかったから。

 無意識に顔をそらした視線の先、射場の向こうの林から、静かな蝉時雨が響いてくる。真っ青な空に大きな白い入道雲がかかっている光景が目に入った瞬間、彼女と二人で過ごしたあの短い夏の日々が脳裏に強く思い起こされた。


 ──藤咲のいない夏が、またやって来る──


 汗がこめかみから頬を伝い、涼風が林から吹いてくると、胸の辺りに開いた孔を通り抜けてゆくようで、そのわびしさに、俺はやりきれない気持ちになった。不意に抱いた郷愁にも似た甘苦しい胸の痛みは、焦燥となって俺を責め立てる。

「先輩、俺、今日はこれで失礼します」

「えっ、もう帰っちゃうの?」

「はい。今日はちょっと、寄るところがあるので」

 正確に言えば「今日も」だけれど、藤咲のことは、先輩にも、両親にも言っていない。

「そうか。それなら仕方ないけど、明日は来てくれよ。私は君に期待しているんだ」

 いつものように悪戯っぽく微笑う先輩の笑顔が、今の俺にはとてもまぶしくて切なくて、更衣室に向かう先輩の背中へ向けて、俺はほとんど反射的に「先輩!」と声をかけていた。

「おおぅ!? どした? 急に大声出して」

「いや、あの……お先に失礼します」

 驚いた顔つきで振り返る瑞希先輩に、我に返った俺は、のどまで出かけた言葉を飲み込んだ。

 先輩は一度小首を傾げて小さく笑うと「気を付けて帰りなよ」と、歩き出す。

 先輩と別れたあと、校門を出て十分ほど歩き、駅の改札を抜けるまでの間、俺はずっと自分の軽率な行いを後悔していた。

〈あんな風に先輩に声をかけて、いったい俺は何を聞くつもりだったんだ〉

 先輩に少しでも成長した自分を見せたくて、射を成功させると心に決めていたくせに、ほんの一瞬後には、当の本人に“どうやれば矢を的に中てることが出来ますか”などと問おうとしていたなんて、我ながら情けなくなってくる。

 そうした自己嫌悪は呼び水となって、過去の失敗や後悔を脈絡もなく俺に思い起こさせた。

 親父に怒られたこと。

 同級生との間で空気を読めなかった瞬間。

 友達が離れていった自身の言動。

 ──そして藤咲へ伝えきれなかったたくさんの想い。

 辺りが薄暗くなり、いくつもの細い棒で砂を引くような音がしてきたかと思うと、朝からしとしとと降っていた雨は急にその粒を多くして、錆びた駅の屋根をいっせいに叩き始めた。

 空の高い場所では、白と灰と黒が混ざり合う雨雲が遠雷の音を響かせていて、それらの音に場違いなほど明るいメロディが唐突に合わさると、やがて鉄の重みを軋ませながら、六両編成の電車がやって来た。

 昼前の半端な時間とあって、乗り降りする人はほとんど見かけない。人混みに紛れれば、今の沈んだ気持ちも少しは変わるかと思っていたけれど、それさえ思い通りにはいかず、出発の笛が鳴る電車の中で、俺は窓際に立ってゆっくりと動き始めた景色を眺めながら、罪悪感にも似た藤咲への愛遠いとおしさが込み上げてくるのを感じていた。


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