第9話
藤咲との帰り道は、不思議な時間だった。誰かと話をすること自体、お互いに慣れていないせいもあって、喋っていた時間よりも沈黙の方が長かったけれど、気まずさの中にあたたかで親密な空気が流れていることが、少ない会話のやりとりに感じられた。
お互いにぎこちなさは残るものの、誰かと話をして心がぬくもってゆく感覚は、俺にとってはとても久し振りのことだった。
──どうして藤咲と話していると、こんなに心が安らぐんだろう──
そんな夢見心地な頭のままでいたせいか、藤咲と別れ、自分の家に着いたとき、俺は隣接している仕事場から帰って来た父親の姿をうっかり見落としていた。
「……帰ったのか」
玄関先でばったり出くわした瞬間、まるで強風にあったように俺の胸から灯りがかき消されて、苛立ちまぎれの悪態が代わりに居座った。
「鞄を置いて着替えたら、工場へ来い」
いつもと同じ不機嫌な声で、こちらの都合など考えない物言いに、俺はせめてもの抵抗として何も答えないでいると、父親は「聞こえたら返事くらいせんか!」とさらに凄んでくる。
「……宿題やらないと……」
「工場は七時で閉める。宿題はそのあとでも出来るだろう」
何とか考えたそれらしい言い訳もあえなく否定され、俺は視線を落とした。
「お前ももう仕事を覚え始めてもいい年頃だ」
今のうちに仕事場の空気に慣れておけと、父は言いたいことだけ言うと、さっさと中に入ってしまった。
「調子にのんじゃねーよ! クソっ!」
しかし言葉に出た罵倒は小さく、伝えるべき相手がいなくなってからでないと言えない自分に、いつも情けなくなる。
俺はため息をひとつ吐いて家に入ると、自分の部屋の隅に鞄を放り投げて、着替えもせずに畳へ寝転がった。
仰向けになって、天井の木板を意味もなく目で数えていると、父親から今まで言われてきた躾の数々が思い起こされて、うんざりした気持ちになってくる。
「ガキのころからなんにも変わってねぇな、俺……」
そうして目を瞑り、藤咲と感じたあの心安い空気を思い出そうとしたけれど、白い色が黒い色に勝てないように、頭に浮かぶのはさっきの父親とのやりとりばかりで、理不尽な親の圧力と、それに屈して何も言えない自分への腹立ちが、何となく藤咲との時間を汚しているように思えてきた。
「浩樹、お父さんが呼んでるわよ」
タイミングをはかったように、襖の向こうから母の声が聞こえて、俺は目を開けた。
俺は再び苛立ち混じりのため息を吐くと、制服を着替え、重い足取りで父が待っている工場へと向かった。
敷地内にある工場は、父をいれても従業員が五人に満たない小ぢんまりとしたもので、大手企業のための機械部品を造っていた。
工場へ入ると、今は小休止らしく、やかましい機械の音の代わりに、工員がお互いの冗談を笑い合う声が聞こえる。
「おう、浩樹君。こっちで一緒にコーヒー飲むかい?」
父親より一回りほど年下の田口さんが、カップを掲げて陽気に笑いかけてくるけれど、俺がそれに答えるよりも先に「そろそろ始めるぞ」という無愛想な父の声が遮った。
父はこの工場の責任者として現場を監督する立場にあり、いずれは俺に後を継がせようと、たびたび俺を仕事場へ呼んでは、機械の操作やスイッチを切り替えるタイミング、出来た製品のチェックなどのやり方を、頼んでもいないのに教え込もうとするのだった。
父親の手前、表面上は真面目に聞くふりをしながら、俺はいつも心ここにあらずの状態で、身体だけを言われたとおり動かしながら、胸の内で焦燥ばかりを燻らせていた。
──こんなことしてる場合じゃない──
動かし始めた機械の喧騒と、初夏の暑さが籠る狭い工場の中へ、自分の未来が逃げ場もなく勝手に定められてゆくような気がして、俺はどうすればいいのか、自分がどうしたいのかも分からないまま、救いを求めるように藤咲のことを想った。
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