第8話





 藤咲燈子の最初の印象を、俺は思い出すことが出来ない。

 中学二年になった最初の登校日。ひとりずつ教壇の前に立たされて、順番に自己紹介をしてゆく間、俺はずっと頭の中で昨日読んだ小説を思い返していた。基本的に他人への興味がない俺にとっては、クラスメイトのプロフィールなど新聞の地方欄よりもどうでもいい情報に過ぎなかった。

 教室は新しく始まる学校生活に浮わついたざわめきで満たされていて、そういったこともあってか、彼女がどんな表情で、どんな佇まいで、どんな気持ちで自分のことを話していたのか、まったく記憶にない。

 藤咲のことを初めて意識したのは、二年生になってから何度目かの国語の授業のときだった。

 そのとき俺は、授業中いつもそうであるように、ぼんやりと先生の言葉を聞き流していた。黒板に書かれたことを機械的にノートへ写し、アンダーラインを引き、赤ペンで書き込む。

 そのこと自体に意味はない。空っぽな頭のまま、ただ五十分の時間つぶしのための無為な行い。

 ──こんなことしてる場合じゃない。

 いつからか思うようになった心の口癖に責め立てられて、ノートの上でシャーペンの芯が鈍い音を立てて折れた。そのときだった。

「では、次のページを……藤咲さん、読んでもらえる?」

「はい」

 先生に当てられた彼女が席を立ち、教科書に載っている谷川俊太郎の「二十億光年の孤独」を読み始めたとき、俺はハッとして耳を傾けた。

 彼女の声は決して大きい訳でも強い訳でもなかったが、頭に、胸に、直接語りかけてくる調べを紡ぐ彼女の声には、寄り添うようなぬくもりと同時に他者を拒むような冷たさがあって、その相反する二つの思いを同時に発する彼女に、俺は目を奪われた。

 窓側の席にピンと背筋を伸ばして立つ彼女の姿は、廊下側の俺の席から見ると、まるで後光を浴びたように輝いて見えた。

 やわらかな金色に輝く午後の陽に縁取られて、淡い微睡みのような光に包まれながら、ひとつひとつの音を綺麗に、それでいてどこか憂いを秘めた声で朗読する彼女から、気付けば俺は、目が離せなくなっていた。



 あの日の国語の授業以来、俺は知らず知らず藤咲のことを目で追うようになっていた。

 彼女は誰もが目を引くような美しい容姿をしているという訳ではなく、むしろ地味で目立たない存在だったけれど、何気ない所作に表れる上品さや、どこか陰のある佇まい、伏し目がちな瞳などが、不思議と俺を惹き付けた。

 藤咲について知っていることはほとんどない。けれど、彼女には親しい友人がおらず、自分から人の輪に入って行く気もないことは、何となく分かった。

 新しい学年になって、見知った顔もあれば初めて知る奴もいて、ほとんどの生徒がお互いに距離感を探り合いながら、くすぐったくも少しずつ打ち解けていく中、彼女は誰とも親しくなろうとしていなかった。

 単に人見知りで内向的であるという理由だけでなく、クラスメイトの女子から仲良くなろうと話しかけられても、彼女は積極的に他人との交流を避けているような節が窺えた。それでいてひとりが好きという訳でもないらしく、クラスメイトが去っていったあとで、泣きそうな顔をしながら俯いている姿を何度か見かけたことがある。

 放課後の弛緩した空気の中、クラスメイトの男女が集まって笑い声を上げている隅で、藤咲はその名と同じ燈色の夕陽を静かに眺めていた。


 ──彼女は何を想いながら、あんな風に夕陽を眺めていたんだろう──。


 校門を出たあとも、夕映えに照らされた儚げな彼女の横顔が俺の心に強く焼き付いていて、帰り道を歩きながら、考えるのは藤咲のことばかりだった。


 ──どうして藤咲は誰とも心を開こうとしないんだろう──。


 ──泣きそうになるくらいつらいのに、何故他人を避けるのだろう──。


 ──憂いを秘めた瞳で、何処を見ているのだろう──。


 考えに没頭するあまり、いつしか俺は立ち止まっていた。

 上り坂の頂上付近、太陽が一番紅く大きい姿を見せる時刻。暖かな夕陽を浴びながら、後ろから近付いてくる足音に何気なく振り返ったとき、俺はもう少しで声を上げるところだった。

〈藤咲……!?〉

 藤咲のことを考えていたこの瞬間に、当の本人が現れるというのは、タイミングがいいのか悪いのか。いずれにしても、このままだと間もなく彼女も俺の存在に気付くだろう。

〈どうする!? 声をかけるか? でも何て?〉

 頭の中が混乱してまとまりがつかなくなる。膝が小刻みに震え、喉が干からびて唾も飲み込めない。

「あのさ」

 思考も気持ちも無視して、声帯から勝手に声が出た。やたらとかすれていて、きっと藤咲は俺が何を言ったかなんて聞き取れていないだろう。

 それでも俯いていた彼女が少し遅れて顔を上げたとき、俺の胸は熱く高鳴って、うれしい──によく似た感情──気持ちが身体中を駆け巡った。

「同じ方向なら、一緒に帰らない?」

 普段の俺なら絶対に言わない台詞。さっきの呼びかけといい、頭は真っ白なのに、言葉が俺の脳みそを飛び越えてひとりでに出てくる。言ったあとで気持ちがようやく追い付いて、俺の顔は恥ずかしさと自分らしくない行動にきっと真っ赤になっていただろう。逆光だったのがせめてもの救いだった。

 藤咲は何を言われたのかすぐには理解出来なかった顔付きで、どこかポーッとしていたけれど、それでも小さく、確かに頷いた。

 俺の意思が決まる前に勝手な行動を起こした身体だか心だか精神だかを、そのとき俺はメチャクチャ褒めてやりたいと思った。



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