第14話タイム・ディファレンス─2




 今朝の空はどんよりと曇っていた。遠くの方で雷が鳴っていて、灰色の部屋へ雨の気配を運んでくる。時計を見ると八時三十分を示していて、今日の就寝時刻は一一時三十分だと反射的に計算してしまう。

 自分が一日に三時間しか起きていられないと告げられてから、今いる現実は夢のようなものなのだと、私は自分に言い聞かせた。くちなしの甘い香りも、髪を揺らす白い風も、おいしくない食事も、遠雷の静かな轟きも、──そして浩樹君への想いも……みんな、夢。

 私は携帯を開いた。そこには浩樹君宛てのメールが昨日打ったままの状態で保存されていた。切実な願いを込めて打った文章も、今読み返してみると妙に空々しく思えて、私は醒めた手つきで削除ボタンを押した。

 全ての出来事はうたかたの幻。だから、孤独も、悲しみも、絶望も、みんな偽物。

 にもかかわらず、メールを削除した瞬間、私の心の奥底──私自身にも見えないような深いところで、ずっと大切にしていた宝物を速い川の流れに持っていかれたような、後悔と喪失感がどんどん拡がっていった。未だ浩樹君との繋がりを諦めきれない私の中の未練が、悲鳴を上げているのだ。

「もっと心を遠くへ逃がそう。手が届かないくらい遠くに」

 思えば私はずっとそうして生きてきた。本気で何かを望むことはなく、そのかわり痛みも苦しみもない。誰に対しても適度な距離感を保ち、何も求めず、求められることもない。そんな私が人を好きになどなるから、こんなにまで思い悩まなければならないのだ。

 潔く諦めればいい。浩樹君のことも。普通の生活に戻ることも。そうすれば少なくともこれ以上傷つくことはない。

 病室の外の廊下から朝の喧騒が聞こえてくる。食事を積んだ台車や、忙しなく歩く人の足音が響く中、私はナースコールで起床を告げた。

「おはよう、藤咲さん。身体の調子はどう?」

 程なくして看護士の惣市さんが入ってきた。私は渡された体温計をわきの下に挟みながら、特に問題はありませんと答える。

「そう。それは何よりね。それじゃあ、そろそろリハビリを始めてみる?」

「リハビリ?」

「ええ。身体の筋肉を取り戻すためのね。先生とも話したんだけど、いつまでもその様子じゃ不便でしょう? 抵抗力もつけなきゃいけないし、具合が良いようなら、少しずつ身体を慣らしていった方がいいと思うの。元の生活が出来るくらいにはね。あ、それとも朝食を先にする?」

 リハビリのことは初耳だったけれど、少しでも身体を動かせば気分転換になるかもしれない。おかゆをさらに煮込んだ“おもゆ”を食べるよりはよっぽど。

「先にリハビリへ行きます」

「そう。じゃあ準備してくるから、ちょっと待っててね」

 惣市さんは私の体温をボードにチェックして病室を出ると、すぐに車椅子を引いて戻ってきた。乗せられてみると、いかにも病人といった感じで少し抵抗があったけれど、トイレに行って帰るだけで体力の大半を使い果たしてしまう今の私では、リハビリ室まではとうてい歩いて行くことは出来ず、結局、惣市さんに押していってもらうことになった。

「すみません、お手数をおかけして」

「いいのよ、このくらい。気にしないで」

 彼女の明るい笑顔が、私には少し心苦しい。きっと私はあんな風に笑うことは出来ないだろう。

 ナースステーションの前を通り過ぎ、談話室につながる渡り廊下を通って、リハビリ室に着いた。惣市さんに押されながら部屋に入った途端、思わぬ光景を見せつけられて、私は身体を強張らせた。

 教室を二つくっつけたくらいの大きさの部屋には、入院患者二、三人につき、介護士の人がひとり付くというかたちで、あわせて十人くらいの人がいた。元々大勢の人が集まっている場所が苦手な私ではあったけれど、そのくらいは覚悟していた。私が目を奪われたのは、入院患者のひとり、松葉杖をついた中学生くらいの女の子と、彼女をいたわるように傍立つ同年代の男の子だった。

 二人は恋人なのだろうか。少なくとも普通の友人同士という感じはしない。女の子が恐る恐るギブスを付けた脚を踏み出すと、男の子は寄り添って彼女を支える。そのやりとりはおせじにも上手くいっているとは言いがたく、二人の息も合っているようには思えなかった。

 けれども女の子は、男の子が傍にいてくれるだけで心強く感じているらしく、また男の子の方も、不器用な手つきで何とか女の子の力になろうと努力している。

 その様が、焦がれるほどに私の心を深く抉った。「何故」という言葉が私の心の中で乱反射し続ける。何故あの子だけ。何故私には。何故私ばかり……。

「……帰る」

「えっ……? でもまだ来たばかりで……」

「いいから! 病室に戻して!」

 思わず大きな声で叫んでしまった。部屋にいた全員が私の方を見る。あの子と目が合った。最悪だ。

 病室へ帰ってからも、私は歯を食いしばって涙を耐えていた。訳も分からず負けたような気分だった。惣市さんは何度も私を慰めてくれたり励まそうとしてくれたけれど、私が「ひとりにして下さい」と冷たく言い放つと、「悩みがあるなら、いつでも相談して」と言って部屋を出て行った。

 ひとりきりになった病室で、思い出したくもないのに、先ほどの女の子の驚いた顔が頭から離れない。悪意のない彼女の顔が、今の私には余計に悔しくて、悲しくて、零れ落ちそうになる想いを私は必死に堪えていた。浩樹君から借りた詩集を抱きしめたい衝動にかられたが、ここで折れてしまうととめどなく溢れてきそうで、どうにかして心を逃がそうと、私は雨の降る窓の外へと視線を向けた。

 そのとき病室の扉が開く音がして、誰かが入ってくる気配がした。先生だろうか、それとも惣市さんがまた来たのだろうか。いずれにしても気が利かない。私がひどく打ちのめされていることくらい、何となくでも分かるだろうに、こんな時にまでいったい何の用なのか。私は震える心を怒りに転化させて、弱みを悟られることのないよう、顔を背けたまま相手を拒絶する態度を示し続けた。

「……藤咲?」

 その声は弾丸のように私を貫いた。先生とも惣市さんとも違う、それでいて聞きなれた、私を安心させるやわらかな響き。鼓動がひとつ、軋んだ音を立てる。

「浩樹、君……」

 振り返った私の目に映った彼は、記憶の中の姿よりも背が高く、ほんの少し髪が伸びていた。高校の制服を着慣れた様子で身に纏い、中学生だった頃と比べるとずいぶんと大人っぽくなっていたけれど、遠くを見つめるような穏やかな瞳は変わっておらず、その優しいまなざしに、私は心の殻がひび割れる音を聴いた。



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