第41話




 長い話を静かに聞いてくれた瑞希先輩は、一言「そっか」と答えたきり、俯いて黙ってしまった。

 先輩は何か返す言葉を考えてくれているか、あるいは俺に呆れてしまったのかもしれない。いや、きっとそうだ。先輩が何も言わないのは、閉口してしまったことをそのまま俺に伝える訳にもいかないから、俺をフォローするための言葉を一生懸命に探し、けれども見付けることが出来なくて、何も言えないんだ。

〈こんな情けない話、するんじゃなかった〉

 いかに自分が子供であるか、自分自身でさえ痛いほど自覚しているというのに、誰かに話したところでひどいことを言ってしまったという事実が変わるはずもなく、何より半端な俺を受け入れ、ずっと心配してくれていた瑞希先輩に対して、申し訳ない気持ちが胸に迫ってくるようだった。

「──そんなに身勝手なこと、なのかな」

 長い沈黙に身の置き所がなくなって、もう帰ろうと俺が席を立ち上がりかけたとき、瑞希先輩が独り言のように言った。

「自分の人生を生きたいっていう想いがそんなに身勝手なことだとは、私は思わないよ」

 その言葉はある意味、今の俺がもっとも欲していた言葉だった。俺の将来を勝手に決めたあの日の両親の姿が一瞬頭をよぎり、そのとき傷付けられた心の場所をやさしく撫でられるような暖かさが、胸に広がってゆくようだった。

 けれどもそのぬくもりをそのまま受け入れられるほど、俺は自分に対して無自覚ではいられなかった。

「……身勝手ですよ。健常者ならともかく、藤咲は一日に三時間しか起きていられない上に、俺しか知っている人間がいないんですよ。

 今だってそうです。先輩にそう言われて、俺は内心嬉しかったんです。……あれだけ藤咲のことを大切に想っていると言っておきながら、結局俺は自分のことしか考えていない。

 そんな人間だから、あんなにひどいことだって言ってしまえるんです」

「だとしても、だよ」

 俺を見つめる先輩のまなざしは、どこまでも真っ直ぐに、真摯で、そこには俺を慰めるためというより、自分の信念に基づいてはっきりと物を言うんだという意思が感じられた。

「私はね、宗澤。子供のころからずっと両親が望むままに生きてきたんだ。家でも学校でも、私は模範的な優等生だったと思う」

 瑞希先輩は席から立ち上がると、一人用の小さな冷蔵庫から麦茶の瓶を取り出して、俺のグラスへおかわりを注ぎながら、世間話のような軽さで続ける。

「両親は特別厳しかった訳じゃない。むしろ私が失敗しないよう、先回りしてあらゆることを準備し、指示してくれたよ。そのおかげで、私は人生のどの場面においても失敗らしい失敗もなく、大抵のことはそつなくこなすことが出来た」

 先輩は自分の麦茶を一息で飲み干すと、空になったグラスをじっと見つめながら、いつになく真剣な面持ちで語り始めた。

「中学生のとき、ある体育の時間だった。

 その日の授業は隣の組と合同でバスケの試合をするっていう内容でね。今の私からは想像出来ないかもしれないけど、当時の私はすごく人見知りで、友達なんかひとりもいなかった。だから試合が始まっても私にパスなんて回って来なかったし、私も別にそれでいいと思っていた。

 ところが終了間際になって、パスカットされたボールが私のところへ転がってきたんだ。残り時間は十秒。私はノーマーク。おまけに点差はわずか一点で、しかも私たちのチームが負けている。

 さて、君ならどうする?」

「どうするって……、一か八かシュートするしかないでしょう」

「だよね。普通そう思うよね。

 だけど私はシュートをしなかった。

 何かをするときも、そのためにどんなことを考えておくかということも、すべて両親から指示されるがままに生きてきた私にとって、誰も何も教えてくれず、瞬間的に自分で判断して動かなければならないこの状況に、私は咄嗟にどうしていいか分からなかったんだ。

 そうしてボールを持ったまま、うろたえている間に試合は終わった。

 授業が終わったあと、更衣室で私はみんなから責められたよ。『何であのときシュートしなかったの』って。

 私が謝りながら『どうしていいか分からなかった』と正直に答えると、みんなは怒りを通り越して呆れたという風に、ある者は首を横に振り、またある者は嘲笑いながら近くの子と耳打ちしたり、もっとはっきり『馬鹿じゃないの』と言う者もいた。

 そこで初めて、私は自分を知ったんだ。


 ──私は、誰かに指示されないと何も出来ない、何も考えられない人間なんだ──


 って。

 ……何ていうか、今までの自分の生き方だけでなく、私を大切に育ててくれた両親さえも否定されたような気がして、私は泣きそうな気持ちになりながら必死に涙を堪えていたんだ」

 あの瞬間は辛かったなと言いながら、瑞希先輩は苦笑いする。

 先輩の過去を聞いたのは初めてだったけれど、今の先輩しか知らない俺にとっては信じられないような内容ばかりだった。誰からも頼りにされ、明るく、朗らかな先輩は、きっと子供のころから変わらず、俺のように仄暗い気持ちを抱くことなんてないだろうと勝手に決め付けていた自分が、途端に恥ずかしくなってきた。

「それから私は、自分を変えなくちゃいけないと思った。普通の人が当たり前にやっていることを一から学び直す気持ちで、誰かに教えを乞うのではなく、自分自身の考えと行動でひとつずつ出来ることを増やしていこうと思ったんだ。

 切符の買い方、レストランでの注文の仕方、映画館の中でのマナー、町内における規則やゴミ出しのルール、会話やコミュニケーションにおいての基本的な立ち振舞い……。

 どれも当たり障りのない、常識的なことばかりだったけれど、自分が知らなかった新しいことを知り、出来なかったことを身に付けてゆく感覚は、すごく楽しかった。自分の中の世界が拡がってゆくようで、私はもっと、もっと世界を知りたいと思うようになった」

 腰掛けていたテーブルから離れて部屋の中を歩きながら、先輩は手に取った小物へ愛遠いとおしそうに微笑みかける。

「そんなときだよ。おじさんに会ったのは。

 寒い冬の日で、突然帰って来たおじさんに、両親は迷惑そうな顔を隠そうともせず、遠回しに早く出ていってくれという風なことまで言っていた。

 両親は昔からおじさんと折り合いが悪くてね。おじさんのことを話題にすることさえ避けているようだったし、今まで家に招いたこともなかった。真面目な人たちだから、多分おじさんのことを、定職にも就かずあっちこっちをフラフラと放浪しているいい加減な人間、くらいに思っていたんだろう。

 私はおじさんのことを話で聞いただけで、実際に会うのは初めてだったから、両親ほどおじさんへの嫌悪感は抱いていなかった。

 だからだろうね、おじさんは私のことを気に入ってくれて、世界中の色んなことを教えてくれたよ。

 空の色の違い。自然環境の厳しさ。各地における独自の宗教観。美味しい料理。不味い料理。世界で通用しない日本の常識と、その逆。考え方の豊富さや多様な生き方の種類……。


 ──世界はなんて広いんだろう──


 その瞬間、まるで胸の内で銀河が爆発したように、世界への憧れが一気に私の心から噴き出して、私は生まれて初めて自分の夢を見つけたんだ」

 うっとりとしたまなざしで部屋を見回す瑞希先輩の姿を見て、俺は先輩が両親と対立していながら、何故この場所に暗い雰囲気がないのかを悟った。

「ずいぶん前置きが長くなったけど、いいかい、宗澤。人間には自分の人生をどう生きるか決める自由がある。もちろん行動には責任が伴うし、自分ひとりの力じゃ叶わないことも多いだろう。

 だけどね、例えどんな状況であろうと、自分のためにどんな生き方を望んだとしても、それ自体が罪になることなんてないんだよ」

 それは、そうなのだろう。

 瑞希先輩の言っていることはもっともで、間違ったことは何ひとつ言っていないと思う。

 けれどもそんな正論を並べたところで、所詮はただの正論に過ぎない。理屈は正しいとしても、そこからこぼれ落ち、救われない藤咲の気持ちを無視したような先輩の言い分に、俺は段々腹が立ってきた。

「……先輩が俺を慰めようとしてくれているのは分かります。だけど俺はそんなのは求めていないんです。

 だって、ここで俺が赦されたら、自分自身を赦してしまったら、藤咲はどうなるんですか。

 人生のほとんどを眠って過ごし、孤独にかなしみ、たったひとりの友達にさえ見捨てられて、藤咲はこの先どうやって、何をよすがに生きていけばいいっていうんですか……!」

「確かに私は君たち二人の関係性を詳しくは知らないし、藤咲さんにも会ったことがないから、一日に三時間しか起きていられないという彼女の苦悩に、想像が及ばなかったところもあったかもしれない」

「だったら──!」

「だったら君はどうしたいの?」

 俺は思わず言葉を詰まらせた。

「どうしてあんなことを言ったの?」

「それは──」

「君が藤咲さんのことを心から大事にしているように、『お前の下らない話には付き合っていられない。俺は、俺の人生を生きたい』と言った君の言葉もまた、君の本心から出た、君自身の切実な願いだったから。……そうでしょ?」

 そのとおりだった。本当は分かっていたはずなのに、俺は自分自身の汚さを認める一方で、そんな選択をした理由を他の何かのせいにしながら、ずっと自分を誤魔化していたのだ。

 しかし俺にはその「何か」をはっきりと見付け出すことが出来ず、瑞希先輩に具体的な回答を見付けて欲しいと思う反面、先輩には俺の浅はかな心根など見透かされているのではないかという無意識の不安が、今まで藤咲のことを話さなかった理由なのだ。

 本当に、つくづく自分が嫌になる。

 それなのに──

「──先輩は、どうしてそんなに俺のことを気にかけてくれるんですか」

 俯いたままの俺には瑞希先輩がどんな表情をしているのか分からなかったけれど、自己嫌悪と恥ずかしさでいっぱいになりながら、それでも俺は聞かずにいられなかった。

「私が初めて君の射を見たとき、君の顔からは隠しようもないかなしさと、悔しさと、やるせなさを混ぜたような表情がにじみ出ていた。君はそのことに気付いてなかったようだけど、こんなにつらそうに弓を引く人を私は見たことがなかったから、ずっと気になっていたんだ。遠いまなざしで、的じゃなく、別の何かを見つめているその視線の先に、一体何があるんだろうってね。

 でも宗澤の話を聞いて、ようやく分かったよ。君はずっと、藤咲さんのことを見ていたんだね」

「俺は……でも、何もしていません。そばにいるっていう、たったそれだけの約束さえ、守れなかった」

「……いいかい、宗澤。さっきも言ったけど、自分の人生を生きたいと願うことは、ごく自然なことなんだよ。君が自分自身を赦せないというならそれでもいい。私の言葉が必要ないなら聞かなくたっていい。それでも、一言だけ言わせて欲しい。


 君は、何も悪くない。


 それだけは、覚えていて欲しいな」



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