第42話
先輩のその穏やかでやさしい声を聞いた瞬間、目の奥がツンと熱くなって、息をするたびに呼吸が震えそうになった。俺の心の中できつく縛られていた紐がゆるやかにときほどかれていって、暖かくにじむ視界から『赦されたい』という想いがこぼれ落ちないよう、俺は必死に堪えた。
「……先輩は、自分の人生を生きたいと願うことは罪じゃないって言いましたけど、そうすることで他の誰か、例えば家族や大切な人に迷惑をかけたり、かなしませるかもしれないといった状況になっても、自分の道をゆくことを躊躇わないんですか」
「躊躇わないよ」
先輩は速答した。
「もちろん、申し訳ないという気持ちはあるし、それまでの自分と共にいてくれた感謝の念もある。
だけどやっぱり、自分の人生は自分のために生きるべきだと私は思う」
──ああ、この人は、本当にどこまでも真っ直ぐなんだ。
分かっていた。瑞希先輩は決して振り返らない人だということは。先輩にとって俺は特別な存在なんだと、自分勝手に思い込んでいたに過ぎないということも。
それでも、俺はどこかで期待していたのだ。いつまでたっても前に進めない俺を、先輩が苦笑いしながらも暖かい微笑みを浮かべて迎えに来てくれることを。座り込んだ俺の手をとって先へ先へと引っ張ってくれることを。
けれども瑞希先輩は、どこまでも純粋に前しか見ていない。そのときが来れば、きっと俺なんか置いてひとりで歩いて行ってしまうだろう。
その事実に、思いのほか傷付いている自分がいる。
〈俺は、瑞希先輩と共に生きる未来を心のどこかで望んでいたのかもしれない──〉
藤咲を想う気持ちとは別に、俺は瑞希先輩のことが好きだったのだ。恋愛的な意味なのか、それとも憧れという意味なのか。両方共含まれているようにも思えるし、どちらでもない
しかしそれがどちらであるにせよ、心の奥に秘めていた、自分でも気付いていなかったかすかな
けれど、もしもっと早くに先輩と出逢えていたら、俺の未来も変わっていたのだろうか? あるいはこれは──
「先輩は、それで後悔しないんですか。自分のことを必要としてくれているひとがいる、自分の選択のせいで傷付くひとがいる。──だとしても?」
瑞希先輩は、ふっと、かなしげに微笑むと、暖かさの中に力強さを宿した瞳で俺を見つめ返す。
「……そうだね。後悔すると思う。けれど多分、どんな選択をしても、生きている限り後悔しない人生なんてないんじゃないかな。
だからこそ、さっきの問いが大事なんだよ」
「さっきの問い?」
先輩は姿勢を変えると、俺の正面に向き直り、凛とした佇まいで、真っ直ぐ、真摯に、再び俺に問いかけてきた。
「君は、どうしたい?」
外に出ると、空にはすでに淡い月が懸かっていた。夏の終わりの夕まぐれは、暑さを残しながらも、どこかさみしげな涼風が頬を通り過ぎてゆく。
「すみません。遅くまでお邪魔してしまって」
アパートの外まで見送りに来てくれた瑞希先輩へ頭を下げると、先輩は微笑って首を横に振った。
「元々呼んだのは私だし、気にしなくていいよ。また何かあったらいつでもおいで。藤咲さんのことでも、ご両親のことでも、私でよければ話を聞くよ」
ありがとうございますともう一度頭を下げて、俺は帰り道を歩いて行った。
宵の口に瞬き始めた星々を数えながら、失恋ともいえない奇妙な喪失感を抱えて、俺は今まで悩んでいたあらゆることが何も考えられなくなった。
かなしいでもなく、つらいでもなく、あたかも目的地へ向かって機械的に足を動かすことしか出来ないロボットのように、あるいは東から吹いた風が西へ抜けてゆくように、心にも、頭にも、何ひとつ感情の欠片さえ残らないまま、空白になってやがて消えてしまいそうな俺自身の影が、街灯の間でゆらめいている。
「俺は、どうしたいんだろう──」
何かを失いきってしまわないように呟いた言葉に応える者はなく、道を行き交う車や雑踏の音にかき消されて、後にはカカシのように突っ立った俺だけが、ぽつんと残された。
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