第60話




 薄い寝巻きは夜には冷える。それでも、私の身体が小さく震えているのは寒さだけが理由じゃない。浩樹君に強くやさしく抱きしめられて、私の心は嬉しいやら恥ずかしいやら腹が立つやら、忙しなくころころと色を変えていたけれど、やっぱり「嬉しい」が最後にまさって、私も彼の背中にそっと手を回した。ぴたりとくっ付けた浩樹君の胸からは、彼の鼓動と、においと、ぬくもりが伝わってきて、目を閉じれば『私の居場所はここにあるんだ』という安らぎが私を包み込み、どんなに強く抱かれても足りないほどの愛遠いとおしさが、きつく、きつく、私の胸を締め付ける。

「……ごめんな、藤咲。俺、今になってようやく分かったんだ。何も迷う必要なんかなかったんだってことに。

 馬鹿だよな、俺。自分の人生がうまくいかないからって、勝手に焦って、勝手に苛立って、下手にカッコつけたあげく、藤咲に八つ当たりして酷い言葉を捨て台詞にして逃げ出すなんて。俺自身、藤咲と二人で一緒にいられる時間を何よりも求めていたくせに。

 それなのに俺は、何ひとつ成長していない自分自身を藤咲に見られたくなくて、藤咲のせいにして、藤咲を遠ざけて。……そして藤咲を傷付けた」

「ホントだよ。……ばか」

「……うん。だから、お詫びのしるしとして、藤咲に見せたいものがあるんだ」

「見せたいもの?」

 そう言って浩樹君は自転車にまたがると、いたずらっぽく微笑って私を荷台に招く。

「ちょっと肌寒いから、これ着てて」

 荷台に腰かけた私に、浩樹君は着ていたパーカーを寄越してくる。軽くお礼を言って袖を通すと、それには彼の体温がまだ残っていて、私は思わず相好が崩れてしまう。

「じゃあ行くよ。しっかりつかまってて」

 浩樹君の腰に腕を回すと、自転車はゆるやかに進み始めた。足下が地面から離れると同時に身体を支える軸が宙ぶらりんになったようで、私は一瞬だけ不安な気持ちに襲われたけれど、浩樹君にしがみついた腕に力を込めながら彼の背中に再びぴったりと身体を寄せるうちに、心もとない気持ちは消え去って、大好きな人に身を寄せる心地好さと安心感が私の全身を満たしていった。



 藤咲を乗せて自転車を漕ぎ始めたとき、彼女のそのあまりの軽さに、俺は内心愕然とした。三時間しか起きていられないということを除けば、藤咲はいたって健康で、今まで話をしている間も具合の悪そうな様子は一切なく、だからこそ俺は勘違いしていた。藤咲は病人なのだ。

 考えてみれば藤咲は食事にしても一日一食なのだろう。無論、点滴などの栄養補助は受けているだろうけれど、最初に再会したあの日──勢い余って──抱きしめたときも、こんなにも細く、薄く、頼りない身体だったのかと、俺は何だかかなしくなってしまったことを思い出した。

「……ありがとね」

「──え?」

 俺の背中におでこを当てながら、ふいに小さく呟いた藤咲の言葉に、俺は気持ちを引き戻された。風にかき消されてしまいそうなほどの微かな声ではあったけれど、心にほのかな灯りが点いたように、俺の胸の奥を暖める。

「毎日お見舞いに来てくれてたのに、そういえばきちんとお礼を言ってなかったなぁって思ってさ」

「お礼なんていいよ。俺が来たくて来てたんだし」

「ううん、やっぱり言わせて。お見舞いだけじゃなくて──、私のこと見捨てずに、こうして向き合ってくれたことにも」

 それこそお礼を言われるようなことじゃない。俺が今ここにいるのは、日向さんが一生懸命俺たちを引き会わせようと頑張ってくれたことと、俺自身の気持ちが動くきっかけを与えてくれた瑞希先輩や父親のおかげなのだから。

 自身の不誠実さを褒められたような居心地の悪さを感じた俺は、反射的に「それは違う」と言いかけたけれど、今この瞬間だけはネガティブな空気を持ち込みたくなくて、身の置き所のない気持ちを隠したまま、ただ黙ってペダルを漕いでいた。

「実は私、ずっと二人乗りに憧れてたんだ。なんか『カップル』って感じ、しない?」

 自転車の向かい風に巻き返されぬよう、藤咲が俺の耳元に顔を寄せてくる。彼女のやわらかな気配とにおいを間近に感じた俺は、胸が熱くなる想いと同時にわずかな痛みを覚えた。

「二人乗りくらい、いつでもお安いご用だよ」

「ホント? じゃあ他にもお願いしていい?」

「もちろん」

「一緒にデートしたい」

「いいね。どこへ行く?」

「映画観たり、カフェ行ったり。あ、水族館は絶対外せない」

「お金貯めておかないといけないなー」

「猫カフェも外せないよね。ナデナデしたりモフモフしたり」

「俺も猫大好きだから行きたい。美観地区に最近出来たらしいよ」

「遊園地も行きたい。一緒に観覧車乗ろう?」

「観覧車ならいいけど、ジェットコースターは勘弁……」

「あ、絶叫系が苦手な人?」

「苦手っていうか、無理」

「そうなんだ。じゃあ絶対乗らないとね!」

「いや何でだよ!」

「浩樹君の焦ってる姿、めっちゃ見たい」

「いや案外ドSだな!」

「じゃあ替わりに手を繋いで登下校してくれる?」

「いやそれもちょっと恥ずかしいかも……」

 そんな風に俺たちはつかの間、まるで普通の恋人たちのように、ありふれた楽しい未来への希望を語り合い、笑いあった。けれどそれらはすべて叶えられない話だという現実が、まるで指先に出来た小さな傷のように、逃げ切れない俺たちの心をじわじわと痛め付ける。

 だから俺はその傷が大きくなる前に、努めて明るい調子で言った。

「身体が治れば時間なんていくらでもあるんだから、行きたいところもやりたいことも、全部叶えよう」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る