第59話ひかりをこえて──
「──え?」
誰かに呼ばれたような気がして、私は携帯電話の画面から顔を上げた。そのまま視線を巡らし、病室の扉の向こうに意識を向けるも、病院特有のシンと冷たい静けさが滞っているのみで、誰かがいるような気配はない。
やはり気のせいか、と首を巡らせたついでに時計を見ると、時刻はすでに午前零時を過ぎている。浩樹君が家にいて、起きているであろう時間──二十時くらい──を見計らって薬を投与してもらったのに、薬が効き始める時間がズレにズレて、こんな時刻になってしまった。
「どうして時間は平等に流れないのかなぁ……」
目を覚ましてからもう一時間近くが経っていたのかと、私は焦燥と苛立ちとかなしみの混じったため息をついた。
自分にはもう時間が残されていないこと、治療のためにアメリカに行くことを、やはり浩樹君にだけはきちんと伝えておくべきか、それとも黙ったままにしておくべきか、いずれにしてもあまりにも想いが溢れすぎて、迷いに迷ったあげく、私はメール作成ページを開いたまま一行も文字を打てていなかった。
〈私が起きていられる時間は、あと一時間もないのに……〉
浩樹君の前から静かに消えた方がいい。美咲ちゃんにはそう言ったけれど、やはり「私のことは忘れてほしい」というメッセージを直接浩樹君に送ることはどうしても抵抗があった。かといって「私のことを忘れないでいてほしい」とも言えず、別れを決意したはずの心が揺れる自身の弱さに、私はうちひしがれていた。
そうして曖昧な気持ちを弄んでいるうちに、時間は無為に過ぎてゆく。蛍光灯でどんなに明るく照らしても、部屋の中に沈んだ夜の気配を振り払うことは出来ず、その静けさが、私の気持ちをどんどん暗く、陰鬱にして離さない。
ところが携帯に指を添えたまま彫像のように見つめ続けていると、ふいに画面が明るくなり、ポップで軽快な音楽が病室中に鳴り響いて、私は思わずベッドから浮き跳ねた。
「えっ!? えぇっと!? なになになに!?」
誰かから電話がかかってくることなどまるで想定していなかった私は、驚き、戸惑い、画面を確認する余裕もないほど操作に手間取りながら、恐る恐る電話に出た。
「もしもし──?」
もしもし。たったそれだけの声を聞くために、俺は携帯電話を耳に当てたまま、どれだけの時間を待っていたのだろう。たった数コールは時間にすれば十秒ほどだと理解はしていても、まるで何年も飼い主に会えなかった犬のように、俺は込み上げる嬉しさに咄嗟に言葉が出て来なかった。
「もしもし……? あの──」
「あ、ごめん。あの……藤咲?」
「はい……藤咲ですけど──って、え!? 浩樹君!?」
藤咲の慌て様が可笑しくて、俺はさっきまでの緊張を忘れてつい噴き出してしまった。
「そんなに慌てなくても。画面に名前が出てるだろ?」
「え? あぁそっか。急に電話が鳴るから驚いちゃって。画面を確認するの忘れてた」
何だよそれ、とお互いに笑いあうと、たったそれだけのことで二人の間にあったいさかいやすれ違いが一瞬で消え去り、まるで毎日学校で顔を合わせているかのような、自然で心安らぐ空気感が俺たちを包んだ。
「それでさ、藤咲。今、病院の前まで来てるんだけど……、ちょっと会えないかな」
「えっ、来てるの? 今ここに!?」
藤咲は何故か慌てた風に語尾を上げると、通話口の向こうからバタバタ
「藤咲……」
久しぶりに会った藤咲は髪が少し短くなっていて、夏に彼女が目を覚ましたときよりもむしろ中学時代の面影が色濃くなっている。
予想もしていなかった驚きと懐かしさ、罪悪感と嬉しさが混ざりあって、俺は何と続けていいか分からないまま、気持ちだけが、前のめりに言葉を
「藤咲……俺──」
「ばか!!」
「え?」
藤咲が放った言葉があまりにも意外過ぎて、俺は一瞬呆気に取られてしまった。何というか、もう少ししんみりした再会を予想していた俺は、予想の斜め上をゆく彼女の対応に、気持ちの整理をつけられなくて迷っていたことさえ忘れて、ポカンと口を開いたまま固まってしまった。
「どうして来たの! せっかく浩樹君のことは忘れてひとりで生きようって覚悟を決めてたのに! これじゃ意味ないじゃん!!」
肩を震わせ、息巻く彼女はしかし、何ともいえない表情をしている。口はわずかに微笑みのような形に歪み、眉は鋭角に怒り、そして黒く大きな瞳は輪郭さえあいまいにさせるほどの涙をいっぱいに溜めていて、そこに至って俺は初めて、彼女が今までどれだけの抱えきれない思いや気持ちをその小さな胸の奥にひとりで隠してきたのかを理解した。
「ごめん。本当に……」
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