第61話




 身体が治れば時間なんていくらでもある──。浩樹君は実に軽い感じに、まるで今までの私は風邪を引いて学校を休んでいたに過ぎないくらいの気軽さで、そう言った。

「うん。そうだね」

 私も同じように、友だちと週末に遊ぶ約束をするかのような調子で軽く返す。絶対に叶えられないと分かっているから。分かっていて、浩樹君は私のことを思いやってくれているんだと気付いているから。

 道はゆるやかな下り坂に差し掛かり、自転車の軌道が少し安定した。私たち以外には人も車も通ることはなく、静かな秋の夜に、林から聞こえてくる虫の声と自転車のホイールが回転する音だけが、心地よく響いている。

「右に曲がるよ」

 遠心力と重力を身体に受けながら、私たちを乗せた自転車は、誰もいない夜道を進んでゆく。ふと気になって、私は浩樹君に問いかけた。

「そういえば、どこへ向かっているの?」

「それは着いてのお楽しみ、と言いたいところだけど、多分もうすぐ分かるんじゃないかな」

 どういうことだろうと考えているうちに、段々と見覚えのある景色が増えてきた。それらは夜の闇にあってもはっきりと分かるほど私の中の懐かしい記憶にあって、まるで箱の奥にしまった宝物をこっそり覗き見するような高揚が、私の全身を包んだ。

「ここって、まさか──」

 夏の日、強い日射し、青い空、真っ白な入道雲、流れる汗、セミの声、喉を刺すラムネの味──。

 一瞬のフラッシュバックのあと、目の前に現れたのは、二人で過ごしたあの日々へと続く長い長い上り坂。

「さあラストスパート。しんどいけど、ここを上りきれば……」

 浩樹君が立ち漕ぎになって一生懸命にペダルを踏み込むけれど、私を乗せたままの自転車は一気に速度が落ち、タイヤが子供の落書きのような不安定な軌道を描いてしまう。

 たまらず私が荷台から降りて自転車を押し始めると、間を置かずに浩樹君も自転車から降りて、お互い苦笑いしてしまった。

 私たちは自転車を挟んで並び立ち、坂道を上って行った。

 学校からの帰り道、私たちはよくこうして歩いたものだった。真夏の日射しと照り返しを浴びて、二人して汗だくになりながら、笑い合い、秘密の場所を目指した日々は、今も私の心の奥底に輝いている。私が目を覚ましてから再び訪れることが出来るなんて考えもしなかったけれど、無邪気にはしゃぐ過去の私たちに先導され、二人ただ静かに歩みを進めると、やがて道は平らになり、小さく開けた場所に出た。

「藤咲、こっち」

 浩樹君に手招きされ、たどり着いた大切な場所は、大きな鉄塔も、立入禁止の看板も、簡易に造られた階段も、すべてが何ひとつ変わらず私たちを待ってくれていて、私の心の一番深いところにあるという想いが、濡れたようににじんだ。けれど──。

「あ──」

 そこから見えた景色は、私の記憶に強く焼き付いたあの建造途中のアンテナではなく、完成された巨大なパラボラを夜空へ向け、イベントのためにきらびやかにライトアップされた──見慣れない──立派にそびえ立つ『超遠距離電波通信アンテナ“おりひめ”』だった。



 俺は呼吸を整えながら、眼下の風景を見下ろした。山に囲まれた盆地の中、真夜中とは思えないほどのライトがいくつも並び、そのどれもが主役のパラボラアンテナへ向けて当てられている。建造途中にあった足場や骨組みは取り払われ、俺たちの思い出にあった姿は、もう残っていない。

 俺は携帯を取り出して、ニュースサイトを検索した。ライブ中継でアンテナの報道をしているサイトの中からひとつを選んで再生すると、電波の発信に向けて、現在最終確認が行われているところだという。

「良かった。何とか間に合ったようだ」

 俺たちは鉄塔の下のコンクリートの土台へ並んで腰かけた。思い出の残照が紡ぐ二人の距離は、あの日々と同じ近さにあるはずなのに、下方の明かりに照らされた藤咲は何を思っているのか、ぼんやりと静かな眼差しをアンテナへ向ける彼女の横顔からは、判然としなかった。

「アンテナ……、完成したんだね」

 ぽつりと呟いた藤咲の声はどこか寂しそうで、だから俺は「寒くない?」と、わざと関係のない問いかけを返した。

「平気。これ結構あったかいし」

 藤咲は微笑いながらパーカーの袖を摘まんでみせる。

「適当に引っ張り出してきたんだけど、案外似合うな。あ、そういえば髪、切ったんだね」

「気付くのおーそーいー」

「いや気付いてたんだけど、ほら、言うタイミングがさ」

「ホントにー? じゃあ、髪を短くした私を見てどう思った?」

 わざとらしくジト目を向けてくる藤咲に、俺は少しだけ躊躇ためらい、けれども痛切な想いを込めて、正直に答えた。

「……中学のころを思い出した」

 彼女は一瞬ハッとして、物憂げに微笑むと、毛先を触りながら再び視線をアンテナへ向けた。

「……浩樹君とこうしてアンテナを眺めていたのが、何だか遠い昔のことみたい。たった三年前なのにね」

「……またいつでも連れてきてあげるよ。ここだけじゃなく、世界中どこへだって!」

 楽しく希望に満ちた夢を再び持ってこようと、俺は両手を広げ、わざと面白可笑しく大げさに言ってみたけれど、自転車に乗っていたときのような喜びに溢れた雰囲気を──例えそれが仮初かりそめのものと分かっていたとしても──引き寄せることは出来ず、藤咲はやさしさと諦めを混ぜた微笑みを崩すことなく、ゆっくりと首を横に降った。

「ありがとう。でもね、それは無理なんだ。私にはもう時間がない。『今』というこの瞬間さえ、すぐに消えてなくなってしまうんだもの」

 そう言って藤咲は立ち上がると、振り返って両手を広げてみせた。

「ね、浩樹君。覚えてる? 私には『今』しかない。過去にも未来にも、確かだと思えるものは何もないんだって言った日のことを」

「……ああ。覚えてるよ。もちろん」

 しとしとと雨の降る日だった。俺はその日、藤咲に促されるようにして、初めて自分の苦悩や葛藤を話したのだった。父親との確執、空っぽの過去と定められた未来に挟まれた息苦しさ、何も決められず、何も出来ない俺自身の情けなさなどを。

 彼女はそんな俺に『今』という時間を生きることの価値を、大切さを教えてくれた。やさしく降り注ぐ雨の中、幻のように踊ってみせながら。

 ──結局、彼女の言っていたことを実践することは出来なかったけれど。

「あのときの私は、いつか振り返ったときに寂しくないように、『今』という瞬間を大切にしたいって言ったけれど、私にはもう『今』という時間さえ、残されていないから……」

 だからねと、彼女はかなしみのかげを一切感じさせない満面の笑みを浮かべながら、明るく、茶目っ気を含めて、俺に小さなお願いをした。

「せめて浩樹君の中にいる私を、『今』のままに留めないでいてね」

 そう言って彼女は、アンテナの光輝くライトを背景にして、膝から崩折くずおれた。



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