第58話
駅を降りたときには、時刻は二十三時半を過ぎていた。夜でも大勢の人たちが行き交う岡山駅周辺とは違い、ドがつくほどの田舎である美月町は、この時間帯になるとほとんど人を見かけない。また天文台の観測の障害になってはならないという理由で、コンビニなどの店舗も夜九時をまわると閉まってしまうため、街灯や自販機のほかに明かりはなく、人気のない侘しい夜道は、今の俺にとっては虚ろな気持ちを色濃くさせるばかりだった。
──何やってんだ俺は──
その思いは『こんなことしてる場合じゃない』といういつもの口癖と共に、常に俺の心へ冷たく乾いた風を吹き付ける。そうして何もかもを白けた、つまらない、価値のない目で見ているもうひとりの自分自身に気が付くと、「もういいんじゃないか」という甘い
夏の名残のような残暑もしだいに引いていって、シャツは汗ばんでいるものの、夜のこの時間帯にあっては半袖は少し肌寒い。辺りからは九月の涼風に乗ってコオロギの声が届き、そういえば日中どこにいても響いていたセミの合唱が、いつしか聞こえなくなっていることに遅れて気が付いた。
「もう秋、か……」
くちなしの甘酸っぱい薫りはまだすぐにでも思い出せるけれど、季節が移り変わり、年を経るにつれて幼かったころの気持ちを忘れてしまうように、藤咲への想いも、真っ直ぐに生きたいという願いも、いつか思い出せなくなってしまう日が来るのだろうか。
そうした未来の可能性に、嫌だと思う反面どこかホッとしている自分もいて、俺は気持ちをもて余したまま、からっぽの頭で無機質なアスファルトだけを見つめながら歩き続け、いつしか家の前の通りまで来ていた。
家に入ったらまた母親の小言がうるさいんだろうなとウンザリしかけていた俺はしかし、門扉の前にいる見馴れない人影を目にして、思わず歩みを止めた。
街灯の下、思い詰めたように俯いていた彼女は、俺の足音に気が付いたのか、ハッとした風に顔を上げると、今にも泣き出しそうな、どこか切実な面持ちで俺に振り向いた。
「あの……宗澤、浩樹さん、ですか?」
中学生くらいの歳だろうか。短く切った髪にすらりとした細身の体躯は、どことなくスポーツでもやっていそうな雰囲気だけれど、まったく心当たりのないこの少女に俺は戸惑い、困惑しながら何とか答えた。
「あ、ああ。そうだけど──」
君は? と言いかけたところで、タイミング悪く母親が玄関から出てきて、素早く俺を見咎めた。
「浩樹! あんた今までどこをほっつき歩いてたの!? 電話にも出ないし、メールを送っても返事はしないし、どれだけ心配したと思って──!」
「……それよりこの子は?」
延々と続きそうな母親の説教をため息で遮り、俺が手振りで少女を示すと、母親は訝しむように小声になった。
「知らないよ。夜遅くに突然やってきて、あんたに会わせてくれって。まだ帰ってないって答えたら、今度はあんたが帰って来るまで待たせてほしいなんて言い出してさ。何があったのか聞いても『事情が込み入っていて説明するのが難しい』って話しちゃくれないし、中で待つように言っても首を降るばかりで聞かないし。あんたに聞いてみようにも携帯は繋がらないし──」
「あのっ!」
再び始まりかけた母親の小言を今度は彼女が止めて、改めて俺を見つめてきた。
「私、日向美咲っていいます」
パッチリとした意思の強そうな大きな瞳は、眉間に寄ったシワとともに不安定に揺れて、今にもこぼれ落ちそうなくらい心細そうにしている。玄関の門灯に頼りなく照らされた彼女は、その清楚な印象とは似つかわしくないほどに、よれて着崩れを起こしているブレザーの制服を着ていて、家に戻ることなく学校から直接この場に来ていることがうかがえた。
「えっと……、俺に何か用?」
美咲と名乗った彼女は、怪訝な気持ちで問いかける俺に強い眼差しを返すと、わずかに咎めるような口調で言った。
「──宗澤先輩、どうして燈子ちゃんに会いに来てくれないんですか」
藤咲の名前を聞いた瞬間、全身が粟立った。藤咲のことは──良くも悪くも──常に頭の中にあったけれど、彼女の名前を他の誰かから聞かされるとは思ってもみなかった俺は、この不意討ちに一瞬言葉を失った。
「……燈子ちゃんとは、同じ病院に入院してたときに友だちになったんです。お互いすぐに打ち解けて仲よくなれたんですけど、彼女から『私は一日に三時間しか起きていられないの』って聞かされたときは、ショックで何も答えられませんでした。
それでも、前に向かってひたむきにリハビリを頑張っている彼女の姿を見て、私、思ったんです。『ああ、きっと燈子ちゃんには大切な人がいて、その人のことを想いながら、挫けないように今の自分を乗り越えようとしてるんだな』って。だってそうじゃありませんか。自分の身体がそんな状態になっているのに、たとえ私に気を使っているにしても、ひとりぼっちであんな風に微笑ったり出来ないはずです」
「……それで、藤咲から俺のことを?」
「いいえ。先輩のことを聞いたのは看護士さんからです。燈子ちゃんから先輩の話を聞いたことはありません。照れていたんじゃなくて、燈子ちゃんなりのけじめだったんですよ。あなたが来てくれるのを待つんじゃなく、自分からあなたに追い付くために。どんなにつらく理不尽な目に遭っていても、待ってくれている誰かがいる、その人に──宗澤先輩に会いたい、一緒に生きたいっていう願いだけを心の支えにして」
彼女の言葉を聞いた瞬間、心の奥の、藤咲に対する罪悪感を常に感じていた場所から鋭い痛みが走って、身体の内側へ向かって深い
「そう思うと私、いてもたってもいられなくて、どうしても宗澤先輩に燈子ちゃんと会ってもらいたくなったんです。勝手とは分かってたけど、燈子ちゃんのいた中学校を調べて、先輩のつてを借りて燈子ちゃんと同じクラスだった人たちに連絡を取ってもらって、そうやって何人かと会って話をして、ようやく宗澤先輩にたどり着いたんです」
「そう、だったんだ……」
「……燈子ちゃん、私といるときは『かなしい』とか『つらい』って一度も言いませんでした。リハビリがきついとか、しんどいとか、そういったことは冗談混じりにお互い話してましたけど、でも自分の身体のこと──一日に三時間しか起きていられないということ──で、涙を流したり、悔しがったりは絶対にしなかった。
……一度崩れてしまったら立ち直れなくなるから必死で虚勢を張ってたのかもしれない。前だけを見て出来るだけ考えないようにしていただけなのかもしれない。
でもそれ以上に、宗澤先輩の存在が常に心の中にあったからだと思うんです。
……だから先輩、お願いです。燈子ちゃんに会いに来てあげて下さい」
整った顔をわずかに歪めながら、祈るような切実さを込めて見つめてくる彼女の視線を正面から受け止められず、俺は無意識に顔をそむけていた。
「俺だって……何もしていなかった訳じゃない」
くの字に折れ曲がりそうな心を何とかごまかして出た言葉はしかし、自分でも分かるほど言い訳じみて響いた。
「藤咲とのことを相談した先輩からも『会いに行った方がいい』って言われたよ。でもその先輩にも言ったけど、俺が会いに行ってどうなる? 藤咲の身体が良くなるのか? 意識を持っていられる時間が増えるのか?
さっき君は、藤咲が俺と会うために前向きにリハビリをしているって言ってたけど、今の何もかも中途半端な俺が藤咲に会いに行ったところで、藤咲を本当の意味で救うことは出来ない。……最初のうちはまだいい。だけど俺も色々あって、藤咲の前でずっと笑顔でいられるほどの余裕がないんだ。
考えてもみてよ。ずっと一緒にいたいと思っていた人間が、実際は大したことない、取るに足らない、自分のことばかり考えている暗い人間だと知ったら、藤咲はどう思う? しかもあの身体で。希望を与えるどころか、むしろ誰にも自分を救えないということに気付かせてしまって、絶望させてしまうだけだ」
「本当の意味で救うってどういうことですか。どうなれば燈子ちゃんは本当の意味で救われるんですか」
「藤咲自身が、希望を持って生きていこうと思えるようになることだよ。強がりでも虚勢でもなく、逃避のような後ろめたさやかなしみを背後に抱えることなくね。そのために俺は──」
そこで言葉が詰んでしまう。俺は、どうしているんだろう。藤咲のために何をしてきたのだろう。
──このまま藤咲さんにずっと会わないのなら、それは何もしないということと変わらないように私は思うんだ──
「俺は、何なんですか。宗澤先輩は燈子ちゃんのために何かしてあげたことがあるんですか」
不意に頭によぎった瑞希先輩の言葉に重ねるように、彼女は容赦なく俺の心の弱い部分を突いてくる。
「いいですか。さっきも言いましたけど、燈子ちゃんはもうとっくに希望を持って生きていこうとしていたんですよ。先輩との未来を信じて。
それなのにあなたは燈子ちゃんに会いに行こうとしない。燈子ちゃんのためだとか、希望を持たせるためにだとか、耳触りのいい言葉だけ並べて、結局何もしてないじゃないですか。それはそうですよね。お医者さんでさえ燈子ちゃんに対して無力なんですから、先輩が燈子ちゃんのために出来ることなんて何もないんです。……それは私だって同じ。
でもね、私から言わせれば、宗澤先輩が燈子ちゃんに会いに来ないのは、燈子ちゃんがいずれ絶望を味わう結果になるからじゃなくて、燈子ちゃんに対して何も出来ない自分を認めて傷付きたくないからであって、それを燈子ちゃんのせいにしているだけなんですよ」
「──ッ俺がどんな気持ちで毎日過ごしているのか何も知らないくせに、知った風なことを言うな!」
「だったら先輩は知ってるんですか!? 燈子ちゃんの時間がどんどん短くなって、今はもう二時間も起きていられないってことを!!」
──何を言われたのか、理解出来なかった。さっきまで感じていた憤りやかなしみ、苦しみややるせなさが一瞬にして白く平坦になり、不意に浮かんだ凪の海のわびしいイメージだけが、静かに、言語を喪失したまま、頭の中で
「燈子ちゃん、お医者の先生に言われたそうです。目を覚ますための薬がだんだん効かなくなっているって。薬が効き始める時間もどんどん遅くなってるって。……私、ショックで聞けなかったけど、多分、そう遠くないうちに……」
「また──?」
眠りについてしまうのか、と続く言葉を、俺はどうしても言えなかった。考えたくもなかった。嘘だと言ってほしかった。
けれども彼女は、俯いたまま小さく頷き返す。
「それだけじゃありません。燈子ちゃん、より専門的な治療をするためにアメリカに行くそうです。
……私、燈子ちゃんに言いました。このままでいいの? 宗澤先輩に会わないままお別れして本当にいいの? って。そうしたら燈子ちゃんは、これでいいんだ、私が宗澤先輩の人生の
でもそんなのってあんまりじゃないですか。だから私──」
彼女がさっき言った言葉──藤咲は希望を持って生きていこうとしていた──が過去形であることの意味と理由を、俺は遅れて理解した。同時に俺の知らないところで藤咲がどれだけ俺のことを想っていてくれたのかも。
「お願いです。宗澤先輩。燈子ちゃんに会いに行ってあげて下さい。じゃないと燈子ちゃんが……、燈子ちゃんがあまりに……」
そう言って彼女はとうとう泣き崩れた。
〈俺は──どうすればいい?〉
気持ちだけを言えば今すぐにでも藤咲の元へ駆けて行きたかった。それでもすぐに身体が動かなかったのは、ただ会いに行く、本当にそれだけでいいのかという思いが未だ心に燻っていたからだった。藤咲に対して無力なまま、悪い意味で何ひとつ変わっていない俺が会いに行ったところで、藤咲を本当に勇気づけられるのかという思いが。
〈何か……、何か出来ることがあるはずだ。考えろ! ここで何も答えを見つけられなければ、俺は今度こそ藤咲を裏切ってしまう。二人にしかない時間、二人だけの繋がり、俺だけが藤咲に与えられるもの──〉
──君は、どうしたい?──
──お前は、お前のやりたいように、やればいい──
〈俺のしたいこと……、俺の望むこと……、俺は──〉
焦燥と悔恨で熱してしまいそうな頭の中、瑞希先輩と父親の言葉が浮かび上がる。それらをたどり、つないで、導かれるまま夜空を仰いだ瞬間、俺の胸の奥で、シンプルな、あまりにも近くにあって見えなかった答えが、まるで流れ星のように不意に現れた。
俺はほとんど反射的に家の中へ走り込むと、自分の部屋の箪笥を引っ掻き回し、冬物のパーカーを引っ張り出して再び外に飛び出た。そのまま自転車を動かしている途中で、未だ事態を飲み込めていない母親が困惑気味に「浩樹」と声をかけてくる。
「母さん、その子を家まで送ってあげて」
「それはいいけど、あんたはどこ行くつもりなの?」
「大事な用事──いや、大事な人に会いに行ってくる」
一言そう告げて、大きな声で何か言っている母親を尻目に、俺は自転車のペダルを強く漕ぎ始めた。
〈バカだ……俺は。こんな単純なことにも気が付かなかったなんて〉
藤咲と一緒にいたい、自分が本当に望んでいることはたったそれだけのことなのに、気付くまでずいぶん遠回りしてしまった。そのせいで藤咲を傷付けて、かなしませて……。本当に俺はバカだと思う。
〈何も迷う必要なんてなかったんだ〉
俺と藤咲が本当の意味で共有したものが、『今』という時間ただひとつだけなのならば、今の俺がするべきことは、藤咲のために動くこと。これだけなんだ。自分の進むべき道を見付けて、藤咲にも、自分自身にも未来を指し示すのは、そのあとでいい。俺たち二人には、出会ったときから『今』にしか居場所がないのだから。
「ごめん、藤咲……!」
自転車を漕ぎながら腕時計を確認する。時間は零時になろうとしていて、俺はペダルを踏む足にさらに力を加えた。
「今会いに行くから、藤咲。どうか起きていてくれ……!」
すでに終電は出てしまっている。自転車じゃ間に合わないかもしれない。
それでもじっとなんてしていられなかった。胸の奥が熱を持ち、ピストンになった身体が次へ次へと無限に動きそうだった。ためらいも、躊躇も、綺麗に消え去り、ただ純粋に藤咲と一緒にいたいという想いだけが、ささやかな、しかし確かな輝きで夜空に存在するシリウスのように、俺を導く。
「藤咲……! 藤咲!!」
歯を喰いしばって、大きく息を吸って、どうか彼女に届くようにと祈りをこめて、俺は力の限り叫んだ。
「藤咲ーッ!!」
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