第39話




「さ、上がってよ」

「お邪魔、します……」

 瑞希先輩にすすめられて上がったのは、蕭洒なアパートの一室だった。決して広い部屋ではなかったけれど、変わった形の家具や見たこともない外国の小物、繊細な紋様が織り込まれた敷物などが部屋を彩っているさまは、この部屋そのものが宝物を敷き詰めたおもちゃ箱のようでもあった。

「今お茶を入れるから、適当に座ってて」

「あ、おかまいなく……」

 以前にひとり暮らしとは聞いていたけれど、そのとき俺は──まさに今の俺がそうであるように──何か家族の間でトラブルでもあるのかと思って、ただ「そうなんですか、羨ましい」とだけ答えて、あまり深くは立ち入らなかった。

 しかし部屋の中にはそうしたネガティブな気配はまったくなく、むしろ好きなものだけを集めて広げた秘密基地のような、好奇心にワクワクする気持ちをまっすぐに表した明るい空気で満ちていた。

「綺麗でしょ?」

 部屋を見回していた俺に気が付いたらしく、瑞希先輩は麦茶を机に置いて、俺の隣に回った。

「この部屋にあるものは、みんな私のおじさんからもらったものなんだ」

「先輩のおじさんって……何をしてる人なんですか?」

「うーん、何ていうか……一言ひとことでいえば自由人?」

「自由人?」

 怪訝な俺の声音に、瑞希先輩は、あははと苦笑いをしながらも、その声には暖かな親愛が感じられた。

「おじさんはね、世界中を旅しながら写真や動画を撮って、ネットに載せる仕事をしているの」

 言いながら、先輩は携帯で動画サイトを開き、おじさんが撮ったという動画を見せてくれた。そこには世界遺産で有名な場所や、見慣れない異国の家々、朝靄あさもやに霞む石畳の路地に、活気と混沌が合わさった屋台の並ぶ市場や、様々な人種が行き交う夜の雑踏など、どれもその土地の──カメラに映しきれていない──さらにその先へ続く道を歩いてみたくなるような、魅惑と刺激に満ちた映像が収められていた。

 ──身体の治った藤咲とこうした場所を一緒に歩けたら、どんなに素晴らしいだろう──

 次々と表れる映像を見ながら、俺はそんなことを考えずにはいられなかった。


 テレビでしか見たことのない場所へ行って、意外な事実に驚いたり、がっかりしたり。

 現地の人たちにとっては日常的な光景をめずらしく思ったり。

 早朝の空気の違いを肌に感じたり。

 そこでしか食べられない変わった料理を食べたり、露店で買った奇妙なお土産に笑いあったり。

 離れないように手を繋いで、互いのぬくもりを確かめ合いながら、夜の妖しくも美しい雰囲気に酔ったり……。


 そんな俺のわずかな願望は、けれども変えようのない現実にすぐに捉えられて、まぼろしよりも早く散ってしまう。

 ──俺は、想像の中でさえ無力だ。

 胸の奥からじわじわと苦い痛みが沸き上がり、呼吸が濁ってくる。ため息とも自嘲ともいえない、泣き笑いみたいな吐息がもれて、携帯の画面を一緒に見ていた瑞希先輩が俺を向いた。

「宗澤?」

 先輩の声にハッとして、俺はやや遅れがちに先輩へ振り向いた。

「ボンヤリしちゃって……大丈夫?」

「あ……はい。大丈夫です。すみません、寝不足で……」

 俺の下手なごまかしが瑞希先輩に通用するはずもなく、先輩は俺の対面に座ると、困ったように苦笑いして、声のトーンをひとつ下げた。

「ご両親とのこと、考えてたの?」

「ええ……。まあ」

 本当は藤咲のことを考えていたにもかかわらず、何故か俺はそのことを隠すように、先輩の問いかけに頷き返していた。瑞希先輩になら藤咲との関係を知られても、冷やかしたり、無神経なことを言われたりすることは絶対にないだろう。むしろひどいことを言ってしまった今の状況を相談すれば、きっといい助言をしてくれるに違いない。

 ──それなのにどうして俺は、先輩に本当のことを言わないんだ──

 会話が面倒になって適当に合わせた訳でも、話を早く切り上げたい訳でもなく、自分でも理由が分からないまま、しかし言い直すことも出来ない。

「私も両親とは仲違いしているから、宗澤の気持ちも分からなくはないよ」

「えっ、先輩も?」

 意外な言葉に、俺の思考が一時停止する。

「そりゃそうさ。昔ならともかく、高校を卒業したら世界を旅したい、なんて、今どき賛成する親はほとんどいないよ」

「まあ、言われてみればそうかもしれないですね……」

「この部屋だって、元はおじさんのものだったのを私が借り受けたんだ。

 私がどんなに夢を語っても、どんなに世界への憧れを説いても、両親は頑として首を縦に振らなかった。何日も何週間も二人と大喧嘩したあげく、頭にきた私は、半ば家出するかたちでここに住み着いたって訳さ。もちろん、おじさんの許しを得てね」

 いつもおおらかな瑞希先輩が、俺の知らない所で両親とそんなに揉めていたとは思いもよらず、その明るい笑顔の下に葛藤を隠しながら、それでも俺のことを気遣ってくれていたことが、今は何よりも心苦しかった。

「……先輩も、色々あったんですね」

「まあね。でも──」

 先輩はそこで一旦言葉を区切ると、わずかに目を細めて口許を弛める。

「──君が今悩んでいるのは、ご両親との関係じゃないよね?」

 まるで小さな子供が悪戯を思い付いたときのように、どこか得意気な微笑みを浮かべながら、瑞希先輩は言った。

 不意を突かれて思わず目を見張ると、先輩は「やっぱりね」とファミレスで会ったときと同じ、並びのいい綺麗な歯を見せて、少年のように笑う。

「どうして、分かったんですか」

「はっきりした理由はないよ。ただ何となくそう思っただけ」

 瑞希先輩はそこでふっと力を抜くと、茶目っ気のある笑顔が慈しみを含んだ微笑へ変わり、ささやくように穏やかな声音で、再び俺に問いかけてきた。

「……ね。何があったか、話してくれないかな。私じゃ力になれないかもしれないけど、そんなつらそうな顔をしているのを見ると、私もつらくなるからさ」



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