第38話タイム・ディスタンス─5




 『ただ生活しているだけで、かなしみは其処此処に降り積もる』という言葉を、最近よく思い出す。以前観た映画で印象的だった台詞だ。

 時間潰し以外の価値がなくなった学校生活で、授業中も、休み時間も、昼食のときも、ホームルームのときでさえ、俺は藤咲への決別の言葉を放った自分自身が許せなくて、どうしてあんなことを言ってしまったのかと、悔恨と自問ばかりを繰り返していた。

 今の藤咲には俺しかよすがを得られる者がいないことを知っていながら、俺はこれ以上ないくらいひどい言葉で彼女を拒絶してしまった。藤咲は何も悪くないにもかかわらず、ただ俺が俺の人生を生きられないという鬱憤を、ほとんど八つ当たりのようにぶつけた挙げ句、自分勝手な屁理屈で藤咲の心を大きく傷付けた。

 いくら後悔したところで「お前は俺の人生に邪魔だ」と言っているに等しいその言葉を、今さら取り消すことが出来るはずもなく、今の俺には自己嫌悪さえ許されない。

 時刻は六時過ぎ。空はさし曇り、雷の音が響いたかと思うと、夕立が急に降り始め、俺は駅向かいのファミレスへ逃げ込んだ。

 さして欲しくもないドリンクバーを長時間居座ることのアリバイにしながら、俺は窓側の席に座り、改札を抜ける人々の流れを意味もなくずっと眺めていた。まるでそうしていれば、脳裏に何度も繰り返し思い起こされる藤咲の凍り付いた表情を忘れられるとでもいうように。

 静かな雨の音と、肌寒いエアコンの冷気が、俺から少しずつ思考力を奪ってゆく。店内の喧騒が遠ざかり、まぶたが重くなって、いつしか俺は瞳を閉じかけていた。

「なーに見てんの?」

 突然耳元から聞こえた声に驚いて、俺は反射的に身を引いた。

「……瑞希先輩?」

 小さなポニーテールを揺らし、暖かい笑みで佇む瑞希先輩がそこにいた。

「どうして、ここに?」

「学校帰りに通りがかったら、たそがれてる宗澤を見かけてさ。こっそり近付いて驚かせてやろうって思ったんだけど、どうやら上手くいったみたいだね」

 シシシっ、と立ったまま悪戯っぽく微笑う瑞希先輩に、俺はどこかホッとした気持ちで苦笑いを返す。

「それで? どうしたの?」

 瑞希先輩は変わらない笑みで、さりげなく俺のことを心配してくれている。

 そんな先輩に迷惑をかけたくなくて、俺は甘えたい気持ちを隠しながら「ちょっと親と喧嘩して……」と曖昧に答えた。



 そのことで悩んでいたのも、嘘ではない。

 父親を殴り倒してから、俺は両親とまともに会話をしていなかった。

 母親は御飯だの風呂だの、ことあるごとに話しかけてくるけれど、父親とは文字通り一言も喋っていない。あの日以来、俺と父親の力関係が微妙に変化したようで、威張ったり、説教してくることもなくなり、工場で働くよりも居間で酒を呑んでばかりいる姿の方が目立つようになってからは、どんどん父親が弱くなっている気がした。

 そんな父親を見ていると余計に腹が立ってきて、俺は家に寄り付かなくなった。食事と風呂と寝るとき以外はいつも外で時間を潰し、学校からの帰りもギリギリまで道草をくったり、用事もないのに色んな店を渡り歩いたりして、家に帰るのは八時や九時になることもザラだった。

 父親はその度に「こんな遅くまで何をしていた」とか「もっと早く帰れと言っているだろう」などと言い掛かってくるけれど、俺が無言で睨みつけると、父親はそれ以上何も言わず、ただ睨み返してくるだけで、以前のように怒鳴り散らすこともなくなった。

 その変化は俺にとって望むべきもののはずなのに、どういう訳か、そうした父親の態度に俺はますますイライラとさせられて、けれども今の、あたかも一回り小さくなったかのような弱った父親を見ると、苛立ちをぶつけることに小さな罪悪感さえ感じて、俺はどうしていいのかも分からず、胸の内側が中途半端に燻って焦げ付きそうになるのだった。


「そっか。家に居づらいんだ?」

 説明にもなっていない俺の言葉に、瑞希先輩は何も言わず、ただ端的に俺の気持ちをすくってくれる。

 それがありがたくもあり、けれどもっと話を聞いて欲しくもあり、はっきりとした答えを返せないでいると、瑞希先輩は「じゃあさ──」と、ふたたび意味ありげに微笑んで、実に軽い調子で言った。

「うちに来ない?」

「えっ?」

 唐突な瑞希先輩の提案に、心臓が高く跳ねた。先輩は何でもないように言ったけれど、家出をした人間──しかも異性──を自分の家に誘うというのは、何というか、結構際どい発言ではないだろうか。

「えっと、それは……」

 俺が答えあぐねていると、瑞希先輩は「どうせ他に行くあてもないんでしょ?」と、手を伸ばしてくる。

「君とは一度ゆっくり話をしたかったんだ」

 結局俺はその言葉に促されるまま席を立ち、瑞希先輩のあとから店を出ていった。

 小降りになった雨がしとしとと空気を湿らせる中、先輩は一度も振り返ることなく、ただ黙々と歩いてゆく。

 俺は先輩の背中を追いながら、二人の間にある静けさを、不思議と気まずいとは思わなかった。



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