第30話
車に乗って店から家に帰る間、俺はさっきの母親の話を思い返そうとした。
父親の意外な側面を突然教えられて、しかもそれが自分と深く結び付いていたということに、俺は動揺して事実をありのまま受け止めることが出来なかった。今もって父親の言葉は、何となくの大意でしか頭に入っていない。
その中でただひとつ、“遠い場所/手の届かない何か”という言葉だけが、藤咲の笑顔と重なりあって、漆黒の夜空に精一杯その存在を主張しようともがくシリウスのように、俺の胸の内で儚く瞬いているのだった。
〈藤咲……〉
藤咲の病室へは、夏休み最後の日に訪れたきり、一度も行っていない。藤咲と会うたびに感じていた罪悪感が、いつの間にか大きく膨れ上がって俺の心を圧迫するために、病室で彼女と会うと、いつも責め立てられているような気持ちになって辛くなってしまうのだ。
〈いや、それだけが理由じゃない〉
藤咲の病室は、時間が止まっている。
彼女が自分自身でいられる時間は一日におよそ三時間しかない。新しく感じることも、学ぶことも、行動することも、恐らく藤咲にはほとんど叶わない願いなのだろう。
それゆえに、藤咲は事故に遭う前の、俺たちが何のわだかまりもなく会うことの出来たあの日々を、病室の中に何とか留めようと懸命になっている。
それは俺自身にも言えることで、けれども今の俺には、もはやその空気を保つ──あるいは再現する──ことに、とてつもない努力を払わねばならなくなってしまった。のみならず“止まっている時間”そのものにどうしようもなく疼くような傷みを感じてしまって、そのことが一層、俺の心に罪悪感を募らせる。あのころは二人とも“この瞬間がずっと続けばいい”と、変わらないものを求め続けていたというのに。
「変わらないのは、俺の人生だけか……」
助手席の窓越しに流れる景色を見つめながら呟いた俺の声は、ガラスに映る町の灯りのように、虚ろで、実体のない、曖昧で不明瞭なひとりごととなって、すぐに消えた。
──迷っているうちに、気づけば成り行きと打算で生き方が定まってくる──
息を吐いた瞬間、父親が言っていたという言葉が急に俺の頭へと入り込み、後ろからこっそり肩をたたかれたときのように、心臓が一度大きく跳ねた。
俺は思わずハッとして身体を起こし、辺りを見回してしまったけれど、そこに何かがある訳もなく、母親の「どうしたの?」という問いかけに、俺は「いや」とだけ答えて、何事もなかったように再び背もたれに身体を預けた。
〈……親父は本当のところ、俺のことをどう思っているんだろう〉
鼓動が徐々に治まって、緊張が幾分やわらいだ俺の頭に、ふとそんな疑問が浮かんだ。
母親から父親の話を聞かされたとき、つい感情的に「あり得ない」と、頭から否定してしまったけれど、落ち着いて考えてみれば母親の話が嘘とは思えなかった。それは預金通帳を見せられたからという理由だけではない。
──何処へ行っても、何をやらせても、夢見心地な憧れが抜け切らず、何もかもが中途半端になっていずれ生き詰まる──
「クソッ……!」
「どうしたのよ、さっきから」
どうやら俺は、悪態を吐きながら、握った右手の拳を無意識に太ももへ打ち付けていたらしい。
「……別に」
母親の話を信じる気になった、もうひとつの理由のせいだとは、言えるはずもない。
すなわち、父親の言った言葉というものが、こと俺に関しては腹立たしいほどに正鵠を射た指摘だということだ。
──あいつ自身が選ばなくてはならない。夢から醒めて現実を生きるか、夢を見付けて一直線に進むか、そのどちらかを──
〈分かってるよ、そんなこと……!〉
──お父さんはね、あんたがまだ小さな子供のころから、少しずつお金を貯めてきたの。工場の経営が苦しくなってきてからも、毎月の貯める金額は変えなかった。あんたのためを思って──
〈だから分かってるって……!〉
父親のことや藤咲のこと、自分自身のことで頭の中がぐちゃぐちゃになって、追い詰められるように焦ってみたところで、何もかも上手くいかない現状は変わらず、けれども誰が悪い訳でもなく、責める相手さえ見付けられない俺は、結局誰に/何に憤っているのだろう。
気付けば車は家のすぐ近くまで帰ってきていた。
昔と変わらない、寂れた通りを放心したまま眺めていると、ふと、子供のころ父親が仕事でよその工場へ行くとき、軽トラに乗せられてよくこの道を通った記憶が甦ってきた。
いつもむっつりした顔で、笑いかけてくれたことなんてほとんどなかったけれど、あのころの俺は、仕事をしている父親の姿に憧れを抱いていた。物心ついたときには、すでに父親との確執の萌芽が芽生え始めていたけれど、それでも子供心に父親のことを格好いいと思っていたのだ。
だからこそ、酒に呑まれてくだを巻きながら背中を丸めている今の父親の後ろ姿が、どうしようもなく痛ましくて、かなしかった。裏切られ、傷付けられても自分のスジを通し、俺の将来を心密かに案じてくれていた父親の不器用さが、たまらなくいじらしかった。
やがて車は家に着き、俺たちは車を降りた。俺が前を歩いて、母親が後ろに続くかたちで歩き始めた俺たちは、しかしすぐに足を止めることになった。
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