第29話
時刻は五時過ぎ、学校帰りの学生たちがちらほらと行き交う中、俺は母の運転する車の助手席に座って、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
三者面談が終わり、今の俺の気持ちを表したかのような中途半端な雨が、降ったり止んだりしながらフロントガラスを濡らしている。
「……大学へ行きたいと思っていたなんて、初めて知ったわ」
気詰まりな静けさを破ったのは母親だった。前を向いたまま話しかけてきた声には、どことなく咎めるような響きがあって、俺は一層気が沈むようだった。
「何か将来なりたいものとか、あるの?」
「別に」
「じゃあどうして進学したいと思ったの?」
「別に」
「大学を選んだ理由くらいあるでしょう?」
「別に」
「“別に”以外のこと言えないの!?」
母親の怒りはもっともだと思う。勉強は下の下、進学する理由も言わず、将来の希望さえはっきりしない。こんな態度で腹を立てるなという方が無理だろう。
そうと分かっていながら、俺は苛立つ気持ちを隠すことが出来なかった。舌打ちをして、盛大なため息を吐いて、理由も分からず八つ当たりしてやりたい気分だった。
「ちょっと寄り道するわよ」
母親はそう言ってハンドルを切り、ファミレスへ車を駐車させると、有無を言わせず早足で店内に入った。
「おい! ちょっ──!」
慌てて後を追った俺が何か言うよりも早く、母親は注文を取りに来た店員を「ドリンクバーふたつ」の一言で追い払うと、ため息とも深呼吸ともつかない息を吐いて、ゆっくりと俺に視線を合わせた。
「……何? 何なの、急に」
「あんた、進路はどうするつもりなの。今度は真面目に答えなさい」
俺の戸惑いなどおかまいなしに、母親は問題の本質を的確に突いてくる。
意図も分からず唐突に寄り道をしたり、こちらの問いかけには答えずにおいて、自分の聞きたい質問を一方的に投げかけてくる母親に、俺は段々腹が立ってきた。
「どうするも何も、俺に進路を選ぶ自由なんてないだろ。親父は俺の言うことなんて聞かないし、っていうか俺が何か言うこと自体許さないし。……俺には最初から選択肢なんてないんだよ。今も、昔も、これからも。俺が何を望もうが結局は自分の思うように支配しないと気がすまないんだよあの人は!!」
母親の態度に苛立っていたこともあって、俺はここぞとばかりに今までの不平不満を捲し立ててやった。
「……だから、進学希望って書いたの? 適当な大学名をいれて。私たちへの当てつけとして」
俺が何も答えないでいると、母親は不意にカバンの中から銀行の預金通帳を取り出して、こちらに寄越してきた。
「何、これ」
「いいから開いてみて」
静かな母親の気迫に圧されて、俺は怪訝な気持ちで通帳を開いた。
預金残高 ¥5,000,000
「あんたの将来のために、お父さんが貯めてきたお金よ」
母親の言ったことと記載された金額に、俺は言葉を失った。
「は? いや、いやいやいや。え?」
訳が分からなかった。いきなりこんなものを渡された挙げ句、見たこともないような金額を俺の将来のために貯めてきたなどと言われても、あり得ないとしか思えなかった。しかもあの父親が。
頭の中で否認と困惑が絡まってうまく言葉に出来ないでいると、母親が「本当よ」と続けてきた。
「お父さんはね、あんたがまだ小さな子供のころから、少しずつお金を貯めてきたの。工場の経営が苦しくなってきてからも、毎月の貯める金額は変えなかった。あんたのためを思って」
「……嘘だ。あの親父がそんなこと考えるはずがない。
さっきも言っただろ。親父は俺の人生を支配しないと気がすまないって。俺の意見や考えなんて、最初から聞く気さえないんだ。
そもそも俺が進学すると言ったとき即座に否定したくせに、俺の将来のために金を貯めてきたなんて、辻褄が合わないだろ。俺に工場を継がせたがっているのも、自分の会社を潰したくないからに決まってる。とことん自分のことしか考えてないんだよ。あの人は!」
「そんなことはないわ」
「あるだろ!」
「落ち着きなさい」
静かな母親の声にハッとして辺りを見回すと、近くの席に座った客たちが、俺たちに訝るような視線を送っていた。
「……ドリンク注いでくる」
一端冷静になろうと、俺は席を立った。コーラを注いだグラスをふたつ持って席に戻り、ひとつを母親に渡すと、母親は「母さんは炭酸飲まないの知ってるでしょう?」と苦笑いする。俺はそのとき初めて、自分用のドリンクを続けて注いでしまっていたことに気が付いた。どうやら俺はまだ冷静になりきれていないらしい。
母親は一度腕時計に目をやって、グラスに少し口をつけた。
「あんたのこれからについて、いつかお父さんと二人で話したとき、お父さん言ってたわ『あいつは自分が目指すべき道をまだ見付けられないでいる。
学生のころに自分の生き方を見出だすのは難しい。いや、一生かけても分からないやつがほとんどだ。迷っているうちに、気づけば成り行きと打算で生き方が定まってくる。俺だってそうだった。問題はそうした自分の人生に納得出来るかどうかだ。
楽しいことよりも苦しいことの方が多い人生だったが、俺はそういうものだと割り切っている。だがあいつは違う。地に足がつかないまま、遠い場所を、手の届かない何かをずっと眺めている。そういうやつは、何処へ行っても、何をやらせても、夢見心地な憧れが抜け切らず、何もかもが中途半端になっていずれ生き詰まる。
そうならないためには、あいつ自身が選ばなくてはならない。夢から醒めて現実を生きるか、夢を見付けて一直線に進むか、そのどちらかを』ってね。
……お父さんがあんたに仕事を覚えさせようとしているのは、あんたがどんな生き方をするにしても、最低限、職に困らないようにするためよ。……若いころから、お父さんもお金に困ってきたから。余計にね」
母親が話している間、俺はうつ向いたまま、ただ黙ってグラスに浮かぶ炭酸の泡を見つめていた。黒褐色の底からいくつもの小さな気泡が浮かび上がり、弾けて消える様をぼんやりと眺めながら、俺は父親が母親に話したという言葉を反芻してみるのだけれど、うまく飲み込むことが出来ず、朧気な印象だけを残して、言葉は目の前の泡沫のように蒸発してしまう。
「……でもね、正直に言うわ。お父さんの工場、上手くいってないの。今はまだ貯金があるけれど、このままじゃ閉めるのも時間の問題。
だから、あんたを遊ばせに大学へ行かせるような経済的余裕は、うちにはないの。進学するなとは言わないけれど、そのあたりのことを真剣に考えて決めなさい」
そんなことを言われても、俺はいつだって真剣だ。問題は真剣に悩んだところで答えが見付からないということなのに、どうして誰も彼も、俺を焦らせようとするのだろう。
「何か食べる?」
母親が腕時計を見ながら、仕切り直すように聞いてきた。つられて俺も壁の時計を見ると、時刻はすでに五時半を過ぎていて、けれども何も食べる気にはなれず、俺は首を横に振った。
あるいは母親は、こちらの気分を息抜きさせるために言ってくれたのかもしれない。それとも単に帰ってから夕食を作るのが面倒だっただけなのか。
いずれにせよ俺の頭の中は混乱したままで、まとまりのつかない思考が行ったり来たりしながら、目が回るようだった。
俺は締まりそうになる喉を何とか開いて、掠れた声で言った。
「いや、いい。帰ろう」
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