第16話タイム・ディスタンス─2
病室の扉を開いたときの衝撃が、いまだに胸を強く打ち続けている。
学校帰りに寄るいつもの三〇八号室。そこには何もない空間で静かに眠る藤咲の姿があるはずだった。くちなしの花の薫りと、白い風が吹き抜ける静櫃な穏やかさに満ちた、変わらない場所。
だから、ベッドの上で背中を向けて佇んでいるその姿を目にしたとき、俺は最初、それが誰なのか分からなかった。
それでも、“もしかしたら”という気持ちが“そんなはずはない”という気持ちにわずかに競り勝って、恐る恐る彼女の名前を呼ぶと、彼女はハッとした様子で振り返った。
あの頃と少しも変わっていない藤咲が、そこにいた。
信じられなかった。あまりにも突然過ぎて、感情がフラットになってしまう。彼女も俺と同じ想いなのか、驚きに目を開いたまま固まっている。けれども彼女の瞳は、どうしてか俺という存在を認識する前から涙に濡れていて、俺は目の前の現実と、自分の気持ちと、藤咲の涙との間に揉まれ、何も考えられなくなった。
そこからどういうきっかけがあったのか、気付けば俺はベッドの隣に座って、藤咲と話し込んでいた。
何を話したかは覚えていない。というより、話した瞬間から忘れてしまって、何ひとつ頭に残っていないのだ。
藤咲と話をしているということが、あの夏の日々が戻ってきたということがいまだに現実と思えなくて、俺は──そしておそらく藤咲も──少しずつ、まるでお互いの存在を確かめ合うように、慎重にあの頃の雰囲気を取り戻そうとしていた。
いまだに夢見心地な気分が抜けきらず、不安は曇り空のように心に被さっていたけれど、藤咲から覚醒することが出来た理由を聞いて、その翳りは徐々に晴れていった。
彼女に投与した新薬の偶発的な作用ということ自体、奇跡みたいな話だ。それでも藤咲が起きられたのは曖昧な現象ではなく、現実に依った確たる根拠があってのことだと知ることで、俺はようやく喜びが現実に追い付いた。
藤咲とまた一緒にいられる。
藤咲とまた笑い合える。
けれど、希望に膨らんだ二人のこれからを語り始めたとき、彼女は思ってもみないことを口にした。
──実は私が起きていられるのは、その薬が効いている間の三時間くらいなんだって──
彼女はいかにも軽く、まるで用事があって一緒に遊べないことを謝るときのように何でもない風を装っていたけれど、そんな生易しい問題ではないのは明らかだった。
一日に三時間しか起きていられない。今まで想像すらしたことのないその未知の重みに、俺はどうしていいか分からなくなった。わざと明るく言った藤咲の調子が痛ましかった。再び眠りにつこうとする彼女に怖じ気付いた。……そしてあろうことか、藤咲の身体を気遣うふりをして逃げ出そうとしてしまった。
けれども、そんな俺の姑息な態度は彼女に筒抜けだったようで、藤咲は立ち上がりかけた俺の服の裾をつかみながら、隠しきれない不安や怖れをぽつぽつと話し始めた。
──もしかしたら私はまだ独りぼっちで眠り続けているのかもしれないって。そう考えたら、何だか怖くなってきちゃって──
その言葉を聞いた瞬間、俺は自分の行動がどれだけ藤咲のことを傷付けたのかということに、今さらになって気が付いた。
自分自身の情けなさと不甲斐なさを痛感すると同時に、藤咲がどんなに孤独を抱えているか、その小さな肩にどれほどの重荷を背負っているかを目の当たりにして、俺は堪えきれない涙を落とす彼女を、強く抱き締めた。
これは夢なんかじゃないと。
幻じゃなく俺はここにいると。
そう、彼女に感じてもらえるように。
強く。
強く。
そして心に決めた。藤咲と二人でいる時間を、美しく、楽しく、希望にあふれたものでいっぱいにしようと。彼女が何の不安も怖れも孤独も抱かないですむように。
二人で過ごした、あの夏の日々のように。
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