第17話
「君の射は中て弓になっているね」
弓道部に入って間もないころ、瑞希先輩にそう言われたことがある。
中て弓とは的に矢を中てることを目的にした射のことで、弓道初心者にはよく見られる過ちらしい。
「基本となる射方八節をおろそかにしちゃいけない。的は“中てる”んじゃなくて“中たる”んだ」
弓道の本質はそこに込められている、と、先輩は弓道と他のスポーツとの違いを説く。
射方八節とは弓道における基本的な八つの行程のことだ。
“足踏み”で足を開き、姿勢を正す。
“胴造り”で弓を左膝に置き、へその辺りに重心を据えながら、呼吸を整える。
“弓構え”で右手を弦にかけ、的を見る。
“打起し”で頭より少し高い位置に弓をすくい上げ、しかし力まない。
“引分け”で左右均等に弓を引く。
“会”で弦を引き絞ったまま再び呼吸を整え、全身にむらなく気を満たし、雑念を消し去るまでその状態を維持する。
“離れ”で矢を放つ。
“残心”で緊張感を維持したまま、ゆっくりと力を抜く。
簡単にいうと、こうした流れになる。
弓道を始めたはいいけれど、矢を放つまでにそんなにも多くの段階を踏むなんて考えもしなかった俺は、瑞希先輩を始め、他の先輩たちや同級生たちに教えてもらいながら、見よう見まねで同じように型を練習していた。
けれども俺は、その様式化された型の流れに違和感を感じずにはいられなかった。八つもの行程をひとつひとつこなしていったところで、的に中たらなければ、結局は無意味な徒労に終わってしまうからだ。
しかしその一方で、矢が的に中たりさえすれば、それらの行程に大きな意味と価値が付くんじゃないか、そこから何かが変わり始めるんじゃないかという希望を、誤魔化すことが出来なかった。
「心身に気が満ちていれば、結果はおのずとついてくる」
だから焦らないで、と微笑みかけてくる瑞希先輩に、俺は「分かりました」と返事をしながら、しかし内心では反発する燻った思いが熱を上げていた。
──おのずと、とか、いずれ、じゃ駄目なんだ。だって藤咲はずっと時間を止められたまま自分の人生を歩めないでいるのに、健常者の俺がこのまま目標も定めず、ただ無為に時間を過ごしていいはずがないじゃないか。藤咲のためにも、俺は早く“何者か”にならないといけない。きっと矢を的に中てることが出来れば、その一歩が踏み出せる。それなのに──
窓側の席で、青空を流れゆく雲をぼんやりと眺めながら、俺は補習の時間中、そんなことをずっと思い返していた。中年の男性教師が黒板に向かって授業する中、適当に開いた科学の教科書と真っ白なノートだけが、かろうじてアリバイを作っている。
「……っ! ちゃんと聞いてるのか?」
念仏のような授業内容などまともに聞いてるはずもなく、一定のリズムで話していた教師の声が不意に変わったことに、俺は一瞬気が付かなかった。
慌てて教科書を見るも、授業がどこまで進んでいたのかも分からないまま、焦る気持ちだけが空回りする。
けれど、隣の席のクラスメイトに聞かれた場所を問おうとしたとき、みんなの視線が俺ではなく、後ろの方へ流れていることに気付いた。
「高橋! 起きているのか?」
その声で初めて目が覚めたのか、呼ばれた男子生徒がハッとして、机の上に伏せていた頭を上げる。
当てられた高橋という生徒は明るいお調子者で、クラスでも人気のある生徒だった。
「ええと……、えっと……」
さっきの俺と同じように慌てふためく姿に、小さく笑いが起こる。そこで俺は初めて自分が当てられたのではないのだと知って、ホッとした。
よく見れば高橋は教科書すら机の上に出しておらず、どうやら持ってくるのを忘れたまま、よそのクラスへ借りにも行かなかったらしい。
「問三の答えを言ってみろ」
さすがにヤバいんじゃないかと少し心配になってきたとき、高橋の隣にいるやつが身振りで「五だ」と囁く。
「正解は五です!」
「選択肢は四つしかないんだが?」
「うぇっ!?」
教室が先ほどよりも大きな笑いに包まれる。あわれな高橋は友人のいたずらに乗せられて自信満々に答えてしまったがために、余計に可笑しさが際立ってしまう。
「授業が終わったら職員室に来ること。いいな?」
「そんなぁ! 先生、おれハメられたんすよお!」
教室がまたも笑いに包まれる。高橋は友人に「あとでシメるからな」と身振りを送り、しかしその友人も、そして教師も、みんなが笑っていた。
俺はその光景を眺めながら、もし藤咲がここにいて、高橋の立場が俺だったらと思わずにいられなかった。
──きっと藤咲はバカな俺を見て可笑しそうに笑うだろう。高校に入って少し明るくなった彼女は、近くの席の友達と俺の行動のバカさ加減について話に花を咲かせ、しかし上品さを失わない可愛らしい笑顔をふわりと漂わせる。
俺はそんな彼女を視界の端にとらえながら、ニヤけそうな顔付きを友人と絡むことで誤魔化し、内心で“よっしゃ!”と叫ぶ──
そんな楽しくて幸せな場面はきっとどこにでもあるはずなのに、ここにはそれがない。
藤咲は、ここにいない。
俺は虚ろな気持ちでクラスメイトの笑顔を眺めた。不思議とどの顔も同じに見えて、まるで写真の笑顔を切って貼り付けたように思えた。
〈……分かってる。藤咲がいないから、そんな風に見えるだけだってことは〉
そこまで考えて、ふと思った。
〈藤咲には、今の俺はどう映っているんだろうか〉
灰色の景色の中に佇む、虚ろな影。自分の人生さえ定められず、藤咲と出逢ったころから何ひとつ成長していない俺は、藤咲が眠っていた三年間、何をしていただろうか? 時を止められていた彼女に、俺は何かひとつでも誇れるものがあっただろうか──?
そう考えた途端、全身に寒気が走った。
〈……今の中途半端な俺を藤咲に知られる訳にはいかない。もし知られたら、彼女はきっと俺のことを──〉
俺はかぶりを振って、黒板の内容をノートへ写すことに集中した。いつの間にか授業は再開されていて、新たに書き加えられるチョークの文字を綴りながら、俺は必死に自分へ言い聞かせた。
〈そうだ。藤咲だって、学校生活が楽しいものだと思える方がいいに決まってる。俺のいる場所は明るくて、友達がいて、笑いの絶えない場所なんだって、彼女にはそう思っていてもらった方が、病気を治すための希望になるはずだ〉
──だから俺は、今の自分を隠し通さなくちゃいけない。藤咲のためにも。
頭の中で何度も反芻して、自分の考えが間違っていないことを確認したはずなのに、何故か心は執拗に俺を責め立てる。
「……俺は、間違っていない」
呟いた言葉に呼応するように、シャーペンの先が鈍い音を立てて折れる。芯が切れたのか、ノックしても先は出ず、カチカチという小さな音が、妙に俺の神経を逆撫でして苛立たせた。
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