第62話




「藤咲!」

 浩樹君の切迫した声に、私は目を開けた。見上げた彼の顔は今にも泣き出しそうで、それでも横たわった私の身体をしっかりと支えてくれている。意識を一瞬失っていたらしい私には、何が起こったのかはっきりとは分からないけれど、タイムリミットが近付いているのだということは、嫌でも理解した。

「ごめんね……、浩樹君。私、もう時間がないみたい……」

 強いめまいと浮遊感が私を襲い、意識と身体が分離しかけているような錯覚に陥る。浩樹君が何度も私の名前を呼び続けていてくれることで、かろうじて私は意識を保っていられるけれど、それも長くは持ちそうにない。

「浩樹君。私──」

 最期に言っておくべきこと、伝えておきたいことが次から次に溢れ出て来て、何も言い出せなくなったそのとき、まるでタイミングを測ったように辺りが突然真っ暗になった。

「藤咲……、見てごらん」

 浩樹君に抱えられたまま、さっきまでまばゆくライトに照らされていたアンテナへ視線を向けると、すべての明かりは消され、ただ大きなパラボラアンテナのふちだけが青白い光を放っていた。夜の静寂にアンテナの動く作動音がこだまして響き、わずかに上向きの角度に固定されると、円周上にあった光の粒が中心へと集まり、アンテナの穂先へと収斂しゅうれんされ──。


 ──果てしない宇宙へ向けて、メッセージが放たれた。


 私は想いの軌跡を追うように空を仰いだ。初秋の澄み渡った濃紺の夜空に、星々はさながらベルベットの上にビーズを流したかのようにきらめいていて、それらの名もなき星たちが、ささやかな、しかし確かな光となって力強く輝く中、暗黒の虚空へと放たれた電波は、宇宙の果てへと向けて孤独な旅を歩み始めたのだ。正体も、どこにいるのかも、いやそもそも本当ににいるのかどうかさえ分からない相手に向けて、それでもメッセージ──私はここにいる、というたったひとつの想い──を伝えるために。

「すっごく綺麗……」

 それはひとつの完成された瞬間だった。

 ふいに私の心の奥に秘めた言葉にならない想いが、涙になって溢れてきた。目には見えなくても、大切な想いが込められたメッセージがアンテナから放たれ、夜空を駆け抜けて行ったように。

〈そうだ。この感覚……。寂しいような、けれども心強いような今の気持ちを、私はどこかで感じたことがある。──いや、正確には。確か──〉

「──二十億光年の孤独」

「えっ──?」

 同じように夜空を仰いでいた浩樹君が不意に呟いた。

「無限の宇宙へ向けて、いつ届くかも分からないメッセージを放つアンテナを見ていたら、ふとこの言葉が頭に浮かんでさ」

 そう言って微笑む浩樹君に、私はただただ目を丸くするばかりだった。まるで私の頭を覗き込んだみたいに、私もまったく同じことを考えていたからだ。

「だけど寂しいって感じはしない。例え絶対の孤独でも、いつになるか分からなくても、必ずに待ってくれている人がいる。そう信じて突き進むあのメッセージには、勇気と、力強さと、希望が感じられる。──だから、藤咲にこの光景を見せたかったんだ」


 ──ああ、ああ。……やっぱりそうだ。私たちは『今』という時間でしか繋がりを持てなかったのに、私たちには『今』に対する解釈や時間の捉え方の違いが、いつもギリギリのところで心を隔てていた。一緒に帰っているときも。ラムネを飲んでいるときも。建造途中のアンテナを眺めているときも。病室で再会したときも。……浩樹君が離れていったあともずっと。

 ──でもやっと、ようやく、今この瞬間にひとつになれたのだ。アンテナから放たれたあのメッセージが、二人にとって同じ意味を持つように、認識の違いディファレンスも、心の距離ディスタンスもなく、ただ純粋にお互いを何よりも愛遠いとおしく想いあえる存在として。


 ──それなのに。ああそれなのに、どうしてこんなに時間は残酷なのだろう──。


「──藤咲、俺は思うんだ。あのメッセージのように、ただひとつの純粋な想いは、どんな困難があっても、ひかりをこえて、時間をこえて、いつかきっと相手に届くんだって」


 ──もう意識が持ちそうにない。すでに浩樹君が言っていることもおぼろ気にしか聞こえない──。


「──だから藤咲、俺は君に伝えたい」


 ──待って。まだ眠りたくない。浩樹君は何かすごく大切なことを言おうとしてる。


 ああ神様……。


 せめてあと少し…………。


 ほんの瞬間だけでいいから………………。





「──愛してるよ。燈子──」







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