第19話タイム・ディスタンス─3





 扉の前で歩みを止めて、俺は三〇八号室と書かれたプレートを緊張した心持ちで眺めた。

 藤咲が目覚めて以来、この瞬間はいつも固くなってしまう。もし藤咲がまた眠っていたらどうしよう、昨日まで起きていられたのは限定的な回復に過ぎないと言われたら。

 そう考えると、扉を開ける手が躊躇してしまって、このまま引き返してしまいたいと思うことさえある。

 ゆっくりと深呼吸を繰り返すも、身体の中を緊張感が巡り、反比例するように鼓動は早くなる。

〈大丈夫。そんなに最悪なことばかり、そうそう起きるものじゃない。薬の成分が急に変わる訳でもないし、藤咲は俺が来たときはいつも起きてるじゃないか〉

 ──それなら俺は、何故病室に入ることをこんなにも躊躇っているんだ?

 不意に訪れた思考を無視して、俺は顔が強張らないよう細心の注意を払いながら、何気ない風を装って扉を開いた。

「浩樹くん」

 ベッドの上からこちらに半身を向けた藤咲が、可憐に微笑む。

「よう。元気そうだね」

「うん。一応病人だけど、元気だよ」

 彼女が変わりないことに内心ホッとして、持ってきたくちなしの花を花瓶に生けると、俺はハンカチで汗をふきながら、ベッド脇の椅子に腰掛けた。

「外、めっちゃ暑い。マジで今年の夏は異常だわ」

「あはは」

 それから話に詰まってしまう。藤咲はもとより、俺もあまり楽しい話題がある訳でもなく、俺は早速売店で買ってきたアイスを取り出した。

「わ~! アイス! ソーダ!! シャーベット!!!」

 木のスプーンと一緒にアイスを渡すと、藤咲は目を輝かせてそれを受け取る。その笑顔にはわざとらしさの欠片もなく、俺は彼女の自然で満面な笑みを見られたことが嬉しくて、心が晴れやかに透き通るようだった。

「それ、ホップ・ステップ・ジャンプみたい」

「いやいや! 気持ち的にはまさにそのとおりだよ!」

 ん~! と喜びいっぱいにアイスを頬張り、藤咲はひまわりのような笑顔を向けて続ける。

「このシャーベットアイスの砕けた氷のにおいが口の中に広がると、“夏”って感じがするよね」

「あ、それは分かる。学校帰りによく木元屋で買い食いしてたから、余計に夏のイメージがあるのかも」

「木元屋かぁ……。あそこのベンチ、思いっきり日が照るところにあるから、スカートだと肌に直接触れるところがめっちゃ熱いんだよね」

「ベンチといえば、この前コンビニに行ったときにさ──」

 そこから俺はまた話し始める。自分ではない、他の誰かの面白可笑しい話を、あたかも実体験であるかのように。

 その多くは高橋やクラスメイトの言動だったり、行き帰りの電車内で漏れ聞こえた同年代の学生たちの会話だったり、あるいはネットで調べた話や、漫画の一場面をアレンジして話したこともあった。

 それらひとつひとつの話を、藤咲は疑う様子もなく、興味津々といった風に前のめりに聞き入る。少しだけ開いた窓から、時おり薄いレースのカーテン越しにふわりと夏風が舞い込んできて、日射しとともに彼女の白い肌を包み込むと、まるで本当に三年前に戻ったかのような懐かしい気配が、二人の間でいっぱいに広がっていった。

 藤咲の笑い声と、夏の暑さと、アイスと蝉時雨。アンテナを見下ろしていた場所は病室へ変わり、俺は高校生に、藤咲は特殊な症状を抱える病人になった。

 それでも、例え環境が変わったとしても、俺たちは三年前と変わらない。そこにどんな嘘が込められているとしても、二人の間にあった、あの特別な空気を閉じ込めておけるのなら、俺はどんな嘘だって吐き通す覚悟だ。

 だから、俺の胸をかすかに突く痛みは、ほんのちっぽけな、とるに足らない罪悪感に過ぎない。藤咲が笑顔になるのなら、心の底に溜まったわずかな後ろめたさなど、気にすることなんてない。

 ……きっと。



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