第32話タイム・ディファレンス─5




 浩樹君が起きて家にいるだろう時間に合わせて薬の時間をさらに調節してもらい、私の時間は十八時から二十一時になった。この時間帯になると初秋とはいってもやはり窓の外は夜の帳が降りていて、濃紺と黒に染められた景色には孤独と寂しさしか感じ取ることが出来なかったけれど、久しぶりに見る夜の姿は新鮮だった。何せ私が目を覚ましてから“初めての夜”なのだ。

 静かに染み入る虫の声も、朝とは違う風の匂いも、ひんやりとした涼しい空気も、ビーズのようなネオンも、トラックや踏み切りの遠い音も、こんな身体になる前は当たり前に感じてきたことを、私は今さらのように思い出した。

 漆黒の夜空にあっても、たったひとりで銀色に輝きを放つ月の姿はとりわけ印象的で、孤独や悲しみに押し潰されそうになったときは、その優しい光を浴びながら、私は飽きることもなくずっと空を見上げていた。

 ささやかな、しかし自分にとっては大きな意味を持つそれらのことを、私は浩樹君に何通もメールで送った。迷惑であることは十分承知していたけれど、今私が何を想っているか、どんなことを感じているかを、浩樹君にも分かってもらいたかった。返事は返ってこなかったけれど、それでも私は送り続けた。

 ──私はここにいる。だから浩樹君、私のことを忘れないで──。

 という切実な願いを込めて。

 そんなあるとき、浩樹君から久しぶりのメールが届いた。

「浩樹君っ!?」

私は思わずベッドから跳ね起きて、大声を出していた。文面には『明日会いに行くよ。何時頃に行けばいい?』と書かれていて、思わず息を飲んだ。すぐに時間を指定したメールを送り返して、私はうつぶせのままベッドで脚をバタバタさせた。弾むスプリングの感触に、身体全体が喜びで応えているかのようだった。

 けれどもそんな喜びの中にあって、何故か胸だけは閉ざされた氷のように冷めていて、浩樹君と一緒にいたときにいつも感じていたあのぬくもりは、戻ってこなかった。とても嬉しいはずなのに、心の中に拡がる不穏なもやを、私はどうしても振り払うことが出来なかった。



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